観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
高輪大木戸
江戸時代は町ごとに木戸を設け、自身番において警固させました。江戸の入り口であるため高輪は大木戸と呼ばれ、旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのもここまででした。第一京浜の線路側に石垣が残されています。伊能忠敬は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。寛政12(1800)4月19日55歳の時。地図は忠敬が74歳で死んだ3年後、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。この地図を国外に持ち出そうとして発覚、国外追放となったのがシーボルトです。
高輪図書館
高浜公園
すぐ横を新幹線が通り過ぎます。中央部の築山には生きている化石といわれるメタセコイアが植えられています。秋には紅葉が楽しめます。
高浜橋(たかはまばし)
昭和31年3月高浜運河に長さ56m、幅9mの鋼橋完成。橋名は高輪海浜の埋立地にできた橋の意といわれている。
高浜運河沿緑地
高浜運河沿いの遊歩道にはガラスモザイクの壁画が6枚設置されています。みたて保育園、港南保育園の園児と港南小学枚の児童の絵をもとに造られ、ガラス特有の鮮明で美しい光沢と深みのある色調で優しく暖かな雰囲気を添えています。
香取橋(かとりばし)
昭和36年3月架設、長さ27.1m、幅9.5mのコンクリート橋。橋名は、鹿島神社、香取神社はともに軍神として尊宗をうけており近くの鹿島橋に対しての命名。
港南大橋(こうなんおおはし)
昭和44年6月長さ218.5m、幅24mの鋼橋で京浜運河に架設。橋名は港南町にかけられた大きな橋の意。橋の東側には、港清掃工場と港資源化センターがあり、環境学習のための見学会が開かれている(要申し込み)。
港南図書館
港栄橋(こうえいばし)
昭和35年9月芝浦運河に長さ54.1m、幅18mの鋼橋完架設。橋名は東京港の発展の意をこめてつけられたものといわれている。
御楯橋(みたてばし)
昭和41年3月長さ71.4m、幅17.5mの鋼橋で高浜運河にかかる。橋名は万葉集醜の御楯と出で立つ我は・・・から得た。
五之橋(ごのはし)
昭和10年9月6日架設、長さ17m、幅6mの鋼橋。古川にかかる。
五色橋(ごしきばし)
昭和37年2月に高浜運河に長さ93m、幅14.3mの鋼橋完成。橋名はオリンピックマーク五輪の五色にちなんで名づけられたという。
古川橋(ふるかわばし)
昭和43年6月架設、長さ17.6m、幅37mの鋼橋。新堀川の上流を古川といい、私設の橋を市に編入した。その古川にかけられた橋。
元麻布三丁目緑地
近くを流れる湧水を引き込み、池を中心としたビオトープがある。池では、メダカやオタマジャクシ・トンボなどが生活し、蝶や野鳥のえさとなる樹木があるため、さまざまな生き物が訪れる都心の静かなオアシス。生き物達を驚かせないよう、静かに見守ることが大切。※ビオトープとは、チョウやトンボなどを呼び戻すために、人工的に作られた『身近な生き物の生息空間』です。
慶應義塾図書館・慶應義塾三田演説館(国指定重要文化財)/慶應義塾大学
福沢諭吉の塾が築地から芝新銭座へ移ったのが明治元年(慶應4年)、当時の年号にちなみ慶應義塾大学と名付けられました。上野彰義隊の戦いの時も学業を休まなかったといいます。明治4年(1871)春に三田島原藩邸跡の現在地に移転しました。創立50周年記念として明治44年4月に完成した慶應義塾図書館は国重要文化財。赤レンガを主体とした重厚壮麗なイギリス風ゴジック建築で、玄関正面の階段踊り場には「ペンは剣よりも強し」の意のラテン語が入ったステンド・グラスが取り付けられています。
金杉橋(かなすぎばし)
大正8年鉄筋コンクリート橋になり、長さ18.182m、幅36.606m、昭和4年5月改造された。古川にかかる。
久保田万太郎句碑/慶應義塾大学
久保田万太郎は東京浅草に生まれ、三田に学んで永井荷風、小山内薫らを師としました。早く作家として世に出て以来、独自な文人として生涯変わることはありませんでした。碑は図書館の裏に建っています。
看護婦教育所発祥の地
わが国の看護婦教育は、東京慈恵会医科大学の創立者高木兼寛が、ナイチンゲール看護婦養成所を範とした看護婦教育所を有志共立東京病院(現在の慈恵会医科大学附属病院の前身)に付置し、明治17年(1884)アメリカ合衆国から看護婦M.E.リード女史を招き、看護婦取締りに任じ、金曜日と土曜日に看護教育を行わせたことに始まります。ここは、医療を支え、その最前線で活躍する看護婦の育成が始めて行われた場所であり、現在も引き続き行われている場所であることは意義深い。
楽水橋(らくすいばし)
昭和43年3月架け替え、長さ76m、幅4mの鋼橋完成。東京水産大学管理の橋で同校同窓会楽水会より橋名をとったといわれている。
霞橋(かすみばし)
昭和35年6月架設、長さ39m、幅10mの鋼橋。橋名は夕べに霞のこめる浜辺というところからとか。
加賀千代句碑/薬王寺
元和7年(1621)に麻布狸穴に開創された薬王寺は、寛文元年(1661)に現在の場所に移転しました。俳人加賀千代は、諸国歴遊の途中に薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にしここへ立ち寄りました。千代はここで、「朝顔に釣瓶取られてもらい水」(朝起きて外へ出てみると、井戸の釣瓶に朝顔がからみついて咲いているので、それをちぎって水を汲むには忍びないと思い、そのままにして近所からもらい水をした、の意)と詠みました。その井戸は現在も残っています。
荻生徂徠の墓/長松寺
江戸時代中期の儒者。国指定史跡となっています。
岡本かの子誕生地
実家大貫家があったこの地で明治22年(1889)に生まれました。与謝野晶子に師事し、歌人として出発。明治43年わが国漫画界の祖、岡本一平と結婚し、翌年生まれた長男が画家の岡本太郎です。作家活動は昭和11年から没した14年までのわずか4年間でありました。
浦島橋(うらしまばし)
大正11年芝浦運河に長さ54.5m、幅7.3mの鋼橋完成。橋名は芝浦の先に埋め立ててできた島に通じる橋の意という。
一本松
一本松には、いくつかの伝説があり、かつては「冠の松」「秋月邸の羽衣の松」とも呼ばれたといいます。また、この松に醴(あまざけ)を竹筒に入れて納めれば、咳が治るという俗信もあり、麻布七不思議のひとつとなっています。これらの伝説、俗信を生んだのは、古い街道筋にあった巨木を神木視した結果と考えられています。現在の松は、戦後地元町会によって植えられたものです。