観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
看護婦教育所発祥の地
わが国の看護婦教育は、東京慈恵会医科大学の創立者高木兼寛が、ナイチンゲール看護婦養成所を範とした看護婦教育所を有志共立東京病院(現在の慈恵会医科大学附属病院の前身)に付置し、明治17年(1884)アメリカ合衆国から看護婦M.E.リード女史を招き、看護婦取締りに任じ、金曜日と土曜日に看護教育を行わせたことに始まります。ここは、医療を支え、その最前線で活躍する看護婦の育成が始めて行われた場所であり、現在も引き続き行われている場所であることは意義深い。
楽水橋(らくすいばし)
昭和43年3月架け替え、長さ76m、幅4mの鋼橋完成。東京水産大学管理の橋で同校同窓会楽水会より橋名をとったといわれている。
霞橋(かすみばし)
昭和35年6月架設、長さ39m、幅10mの鋼橋。橋名は夕べに霞のこめる浜辺というところからとか。
加賀千代句碑/薬王寺
元和7年(1621)に麻布狸穴に開創された薬王寺は、寛文元年(1661)に現在の場所に移転しました。俳人加賀千代は、諸国歴遊の途中に薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にしここへ立ち寄りました。千代はここで、「朝顔に釣瓶取られてもらい水」(朝起きて外へ出てみると、井戸の釣瓶に朝顔がからみついて咲いているので、それをちぎって水を汲むには忍びないと思い、そのままにして近所からもらい水をした、の意)と詠みました。その井戸は現在も残っています。
荻生徂徠の墓/長松寺
江戸時代中期の儒者。国指定史跡となっています。
岡本かの子誕生地
実家大貫家があったこの地で明治22年(1889)に生まれました。与謝野晶子に師事し、歌人として出発。明治43年わが国漫画界の祖、岡本一平と結婚し、翌年生まれた長男が画家の岡本太郎です。作家活動は昭和11年から没した14年までのわずか4年間でありました。
浦島橋(うらしまばし)
大正11年芝浦運河に長さ54.5m、幅7.3mの鋼橋完成。橋名は芝浦の先に埋め立ててできた島に通じる橋の意という。
一本松
一本松には、いくつかの伝説があり、かつては「冠の松」「秋月邸の羽衣の松」とも呼ばれたといいます。また、この松に醴(あまざけ)を竹筒に入れて納めれば、咳が治るという俗信もあり、麻布七不思議のひとつとなっています。これらの伝説、俗信を生んだのは、古い街道筋にあった巨木を神木視した結果と考えられています。現在の松は、戦後地元町会によって植えられたものです。
一之橋(いちのはし)
昭和58年4月2日、改修工事完了、長さ16.8m、幅17.2mの鋼橋。白金御殿造営に伴う古川改修によりかけたものという。元禄12年(1699)8月に始めてかけられ命名されたという。
レバノン共和国大使館
レソト王国大使館
ルーマニア大使館
リベリア共和国大使館
リトアニア共和国大使館
ラグーザお玉の墓/長玄寺
お玉は文久元年(1861)芝の生まれ。幼いころから絵の才能があり、絵師についていました。明治9年(1876)工部美術学校彫刻科教師として来日したラグーザと知り合い、西洋の絵画技法を学びました。後に結婚。明治15年(1882)イタリアに渡り、ラグーザが故郷シチリア島パレルモに開いた美術学校で副校長として補佐する傍ら、画家としても活躍し各地の展覧会で賞を受けました。ラグーザの死後、昭和8年(1933)帰国。同14年(1939)死去。南欧と日本の美を融合した画風という。明治政府の下で日本医学の近代化に貢献したドイツ人医師エルウィン・ベルツは、滞在中に3千点余りの日本絵画を集めたが、最近そのベルツ・コレクションの中に、お玉が明治13〜15年頃に描いた「村落風景画」、「家族画」「女湯」などの水彩画が含まれていることが分かりました。長玄寺は寛永5年(1628)市ヶ谷に開創、享保3年(1718)現在地に移りました。ラグーザお玉の墓と碑があります。