元赤坂「迎賓館赤坂離宮」を見学! 東京23区唯一の国宝建築に明治日本における美と技術の結集を感じる
今年5月にアメリカのジョセフ・バイデン大統領が来日した際、日本の岸田文雄総理大臣との首脳会談の場になったのが、港区・元赤坂にある「迎賓館赤坂離宮」です。国王や首脳など外国からの賓客が訪れた際に会談やおもてなしの場として使われるこの施設。実は一般公開していることをご存知でしょうか。今回は実際の参観コースを歩きながら、その歴史を紐解いていきたいと思います。明治の近代化が進む中、西洋に肩を並べるべく当時の技術の粋を集めて建てられた煌びやかな名建築をご覧あれ。
元赤坂に立つ豪華絢爛な西洋建築
上皇・上皇后両陛下のお住まいである仙洞御所、明治天皇が一時的にお暮らしになった明治記念館などがある東京・港区の元赤坂。その元赤坂に立つ威風堂々たる西洋建築の建物が「迎賓館赤坂離宮」です。正門の手前が港区のちょうど北端にあたり、参観入口へはJR・東京メトロの四ツ谷駅が最寄駅になります。
参観入口は現在改修が進む正門ではなく、四ツ谷駅側から向かって右手の歩道を進んだ先にある西門になります。正門前で建物の全容を柵越しに眺めつつ西門へ。そして門をくぐった先で手荷物検査等を受け、参観のチケットを購入して入場します。
参観できる場所は「本館」「庭園(主庭および前庭)」「和風別館」という主に3つのエリアに分かれています。一度に3か所すべてを見ることはもちろん、本館と庭園だけ、もしくは和風別館と庭園だけというコースも選択可能です。ただし和風別館の見学はガイドツアー方式となっており、事前予約が必要です。
本館は地上2階、地下1階建ての造りで、延床面積は約1万5000㎡という広大な建物です。一般参観では、現在も首脳会談やおもてなしの場として使用されている4つの部屋を中心に見学ができます。まずは西側の参観出入口から館内に入り、中央階段を見上げる場所へ。
本館は地上2階、地下1階建ての造りで、延床面積は約1万5000㎡という広大な建物です。一般参観では、現在も首脳会談やおもてなしの場として使用されている4つの部屋を中心に見学ができます。まずは西側の参観出入口から館内に入り、中央階段を見上げる場所へ。
ここは正面玄関と中央階段の中間地点。天皇・皇后両陛下、諸外国から来日された国王や大統領など国家元首もここを通って入場されます。赤絨毯が敷かれた階段の先に見えるのは、白亜の壁に金色の装飾がなされ、左右に大燭台が輝くまばゆい空間。皇室の紋である菊花紋のレリーフが見える正面上部の装飾の後ろには、朝日が立ち上る風景を描いた絵画が見られます。そこには朝日とともにゲストをお迎えするという、おもてなしの心が込められています。
西洋の様式と技法を研究して当時の技術の粋を結集
さて、ここで迎賓館赤坂離宮の歴史に少しふれましょう。おそらく迎賓館赤坂離宮という名称を聞いて「迎賓施設なのか、それとも宮殿なのか」という疑問を抱く方は少なくないはず。そのあたりも歴史を紹介しながら紐解いていきましょう。
江戸時代、ここには紀州徳川家の江戸中屋敷がありました。その場所が明治に入って皇室に献上され、明治6年(1873)に皇居が火災に遭ったことに伴い、以降16年間にわたって明治天皇の仮皇居が置かれました。そして、その後に皇太子(後の大正天皇)の東宮御所(皇太子のお住まい)が建てられる計画が起こり、明治32年(1899)から約10年をかけて日本初の本格的な西洋風宮殿が建設されました。
江戸時代、ここには紀州徳川家の江戸中屋敷がありました。その場所が明治に入って皇室に献上され、明治6年(1873)に皇居が火災に遭ったことに伴い、以降16年間にわたって明治天皇の仮皇居が置かれました。そして、その後に皇太子(後の大正天皇)の東宮御所(皇太子のお住まい)が建てられる計画が起こり、明治32年(1899)から約10年をかけて日本初の本格的な西洋風宮殿が建設されました。
設計を統括したのは、宮内省内匠寮の技師だった片山東熊(かたやまとうくま)です。工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)の第一期生として、政府に招かれたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの下で学んだ片山は、東京駅などを設計した同窓の辰野金吾と並んで当時の日本における西洋建築の第一人者でした。
ロシアやドイツで延べ2年暮らした経験があり、東宮御所の建設に際してもヨーロッパ各地を調査して回った片山。その知見を基にして、ネオ・バロック様式の外観をはじめとした当時の日本にはない真新しい建築がデザインされていきます。ただひとつ、日本の宮殿建築には西洋の宮殿にはない課題がありました。それは地震が頻繁に起こる日本の宮殿には西洋よりも高い耐震性が求められたことです。そのため片山は鉄骨をアメリカから輸入し、レンガを補強するという工法を採用しました。花崗岩が積まれた外観の壁は薄いところでも50cm以上と非常に重厚な造りになっています。
西洋の技術と調度品に和のエッセンスを交えて竣工を迎えた宮殿は、関係者から「贅沢すぎる」という声が上がったとも言われているほど豪勢な建物になりました。建設費は510万円以上。当時の1円は現在の2万円に相当するといわれるので、今の価値だと1000億円以上を費やした超巨大プロジェクトの完成だったのです。
東宮御所から赤坂離宮、そして迎賓館へ
中央階段を見た後に訪れるのは、2階にある「花鳥の間(かちょうのま)」です。きっと部屋に入った瞬間、大きなシャンデリアに驚くことでしょう。かつてこの部屋は「饗宴の間」と呼ばれ、現在は国賓などをお招きした際の公式晩餐会会場などに使われています。フランス発祥のアンリ2世様式で構成されたこの室内には、天井や壁の各所に数々の花鳥画が見られます。
その中でも壁にかけられた30面の七宝額は、花鳥画の名人だった日本画家・渡辺省亭(わたなべせいてい)が原画を描き、それを七宝作家の濤川惣助(なみかわそうすけ)が独自の無線七宝でぼかしの部分まで鮮やかに再現したものです。二人の天才がコラボした本作は七宝の最高傑作と呼ばれています。館内には同様に、浅井忠や今尾景年ら当時の日本を代表する芸術家による絵画や工芸品が多数設られており、設備面でも当時最高の技術が結集されました。
さて、東宮御所として造られた建物ですが、皇太子が実際にここに住むことはありませんでした。大正12年(1923)に起こった関東大震災の後から昭和天皇が約5年間にわたって住まいとされたほか、現在の上皇陛下も皇太子時代に延べ1年半暮らされたことはありましたが、長らく天皇家の別邸という扱いで「赤坂離宮」として管理されてきました。そして大正11年(1922)にイギリス皇太子のエドワード・アルバート殿下らが滞在されるなど、赤坂離宮の時代にも迎賓施設として利用されることもありましたが、本格的に迎賓館となるのは戦後に国の所有に移り変わってからのことです。
戦後、国立国会図書館や弾劾裁判所などとして活用された後、一度目の東京オリンピック開催後に外国からの賓客を歓待する施設の必要性が高まったことにより、赤坂離宮を迎賓館に改装する案が浮上。昭和を代表する日本建築界の巨匠、村野藤吾の指導のもと、昭和43年(1968)から6年間に及ぶ大改修が行われ、現在の姿に生まれ変わったのです。
和洋折衷で構成された唯一無二の空間を歩く
続いて見学コースは先ほど中央階段から見上げた大ホールを経て「彩鸞の間(さいらんのま)」へ。19世紀前半のフランスで多用されたアンピール様式で構成されたこの部屋は、創建時は「第二客室」と呼ばれ、部屋全体に張り巡らされた金箔張りのレリーフが見どころです。
西洋の形を忠実に倣っているかと思いきや、入り口上部の壁には鎧武者のレリーフが見られます。さらに暖炉を飾るマントルピースには日本刀の装飾を見ることができ、日本らしいデザインが用いられています。一方で、鳳凰の一種である霊鳥「鸞(らん)」の装飾も特徴のひとつです。
次に訪れる「朝日の間」は迎賓館で最も格式の高い部屋です。首脳会談等に使われるほか、賓客が天皇皇后両陛下とお別れの挨拶をするのもこちらの部屋です。ルイ16世様式による室内には、ノルウェー産大理石によるイオニア式の柱が並び立ち、頭上には朝日を背にした暁の女神の天井画が配されています。
ここにも和風のデザインが散りばめられており、四方の壁面には京都・西陣織の紋ビロードが張られているほか、四隅の天井には五七の桐紋が見られます。壁面に陸軍と海軍をイメージした絵が描かれているのも特徴のひとつ。また、床に敷かれた緞通(だんつう)には47種類の紫色の糸が使われ、桜の花をイメージした見事なグラデーションが描かれています。
そして4番目に訪れるのが「羽衣の間(はごろものま)」です。かつて舞踏室とも言われていたこちらの部屋には音楽にまつわる装飾が見られます。無数の楽器があしらわれた壁のレリーフの中には、琵琶や太鼓など日本古来の楽器も。また、オーケストラボックスがある手前には、かつて皇居にも置かれていたというフランス・エラール社特注のピアノが置かれています。香淳皇后の愛用品だったピアノは今も現役で、ピアニストを招いて演奏会が開かれることもあるそうです。
本館の見学コースでは各部屋にボランティアガイドの方がいらっしゃるので、より詳しい歴史を知りたい人は解説をお願いしてみるといいでしょう。
港区に眠る一人の建築家の情熱に思いを重ねて
本館に続いては、噴水池のある主庭を通りながら和風別館「游心亭(ゆうしんてい)」へ。こちらは予約制のガイドツアーで見学することができます。
こちらも首脳会談などで頻繁に使われる場所。近年では、アメリカのトランプ前大統領が2017年の来日時に池の鯉に餌やりをする様子が大きく報じられた場所として記憶にある方も多いでしょう。
昭和49年(1974)に建てられた館内には、竹が植えられた坪庭や、生け花や日本舞踊が披露されることもある広間のほか、茶室もあり、外国から来たゲストに日本の美を伝えるための設備が揃っています。なお、ここで育った竹は備品に再生されて敷地内各所で活躍しています。
和風別館の見学を終えたら正門側にある前庭に移動して、最後に威風漂う本館の外観を正面からじっくり眺めてみましょう。石畳の広場の上に堂々と立つ均整が取れた宮殿建築は、ここだけを眺めていると本当に西洋にいるかのよう。
本館の屋根にも鎧兜の彫刻を見ることができます。そのスケールと豪華絢爛さを目の当たりにすると、今から100年以上前に建物を設計した片山東熊の情熱を改めて肌で感じるはず。なお、片山は迎賓館赤坂離宮の竣工から9年後の大正6年(1917)に逝去。南青山の青山霊園に埋葬され、港区ゆかりの偉人として今も区内に眠っています。
明治の近代化で時代が大きく移り変わる中、国の威信をかけ、当時の建築、美術、工芸界の総力を結集して建てられた迎賓館赤坂離宮。今も外交の舞台として現役の豪華建築は、歴史ファンでならずともぜひ一度訪れてみたいスポットです。参観日、参観料、和風別館の予約方法などについては、下記の公式ホームページをご確認ください。
【迎賓館赤坂離宮 公式ホームページ】
https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/
【迎賓館赤坂離宮 公式ホームページ】
https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/