東京・港区に残る渋沢栄一の記憶と、明治・大正の産業発祥の地を巡る

先月から始まった今年の大河ドラマでその生涯が描かれる明治・大正時代の実業家・渋沢栄一。日本最初の商業銀行である第一国立銀行、帝国ホテルなど500以上の企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢は、三田綱町に邸宅を有した東京・港区ゆかりの人物です。渋沢が関わって創設にされた港区内の企業も数多く、その中には現在も存続している有名企業もあります。今月の特集では港区に残る渋沢栄一の功績を解説しながら、彼が活躍した明治・大正時代に起こった近代産業の歴史を伝える「発祥の地」などを巡ります。

明治が始まった頃の「港区」は…

慶応4年(1868)、田町の薩摩藩邸で江戸無血開城につながる西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、大政奉還に至るきっかけの地となった東京・港区。JR田町駅近くの藩邸跡には当時の記録を今に伝える「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」の碑が立っています(現在は周辺工事に伴い非公開)。そして、東京市の中に港区の前身となる芝区、麻布区、赤坂区が置かれたのは明治11年(1878)のこと。その後、昭和22年(1947)に3区が合併して現在の港区が生まれました。

新橋から銀座通りを望む明治43年頃の風景 国立国会図書館デジタルコレクションより

明治に入った日本は富国強兵、殖産興業を政策に掲げ、西洋から技術者を招くなどして著しい近代化を遂げていきました。その頃の港区は海岸部の埋め立てが進む前で、現在のJR東海道線あたりまでが海岸線でした。明治5年(1872)には、新橋ー横浜間で日本初の鉄道が開業。汐留地区にあった初代の新橋駅は東京の玄関口となり、新橋周辺は貨物・運送の拠点として発展しました。

明治42年頃の新橋停車場 国立国会図書館デジタルコレクションより

その後、大正3年(1914)に東京駅が開業すると、初代新橋駅は汐留駅(現在ある都営大江戸線とゆりかもめの汐留駅とは別物)と改称されて貨物専用の駅に。その一方で現在の駅が立つ場所にあった烏森駅が2代目の「新橋駅」になりました。さらに昭和61年(1986)には汐留駅が廃止。現在はその跡地に初代新橋駅を再現した旧新橋停車場が建っています。

仮営業のため、新橋駅より4ヶ月早く開業した品川駅の高輪口にも「品川駅創業記念碑」が立っている

さて、明治時代が始まった頃、渋沢栄一は28歳。当時の渋沢は徳川慶喜に仕える幕臣で、慶喜の弟・清水昭武の随行員として万国博覧会が開かれたパリなどヨーロッパ各地を2年弱に渡って訪問し、生の西洋文化に触れて帰国した年でした。帰国後には既に幕府は倒れ、慶喜を追って静岡に移った渋沢は、静岡藩に仕えた後、民部省、大蔵省に従事。明治4年(1871)に東京へ移住し、それから2年後に大蔵官僚を辞職して実業家としての一歩を踏み出しました。

東京にガスの火を灯した渋沢栄一

渋沢は明治時代から大正時代にかけて数え切れないほどの事業に携わり、近代化が進む日本において多大な足跡を残しました。渋沢栄一記念財団が公表している資料によると、渋沢は港区でも35の事業に関わっています。その代表的な功績のひとつが、現在の東京ガスの前身にあたる東京瓦斯株式会社の設立です。

明治7年(1874)に芝区浜崎町(現在の港区海岸1丁目)で東京初のガス工場ができた時、ガス事業は官営でした。その後、明治18年(1885)に民間払い下げとなったところを渋沢らが買い取り、東京瓦斯株式会社を創設。渋沢が初代社長に就任しました。以降、35年に渡って社長を務めたガス事業は、渋沢の功績を代表する事業のひとつです。

明治33年頃の東京瓦斯株式会社第一工場 国立国会図書館デジタルコレクションより

JR浜松町駅の南口連絡通路を出てすぐの場所に、東京ガス創業の地を示す「創業記念碑」が立っています。その碑文には「明治六年十二月ニシテガス供給ヲ開始シ銀座街灯ニ瓦斯燈ヲ点火シ行人ヲシテ驚異ノ眼ヲ瞠ラシメシハ其翌年ノ異ナリ(明治16年にガスの供給を開始し、翌年には銀座の街灯にガス灯を設置して、街ゆく人々が目を見張った)」と東京におけるガス事業のあけぼが書かれています。

港区海岸1丁目に立つ「創業記念碑」

創業初期の頃、ガスの主な用途は街灯用の燃料でした。明治16年(1883)には、港区の金杉橋から中央区の京橋までの道に85本のガス灯が立てられ、銀座の夜をモダンな光で照らしました。渋沢がガス事業に関わるのはこのガス灯が立った後のことになりますが、若き日にパリの街路でガス灯を見て西洋文化の香りを感じていた彼にとっても、その灯りは特別なものでした。

三田綱町にあった渋沢邸

また、渋沢栄一は69歳を迎えた明治42年(1909)に、それまで深川にあった邸宅を港区の三田綱町に移しています。この頃の渋沢は北区の飛鳥山にも自邸を持ち、主な住居はそちらでしたが、長男・篤二の家族が住んだ三田の邸宅でも長い時間を過ごしました。渋沢の自著の中には三田綱町の屋敷について、こんな言葉が残っています。

『六時綱町邸二至ル、新築落成、本日目出度移転セラル、立派二具合ヨク出来、見ハラシ、日アタリ、風通シ等スベテ宜シキハ勿論、住居勝手モ余程便利ラシヽ…』(6時に三田綱町の家に来た。工事が終わり今日めでたく移ってきた。立派で具合良く、見晴らし、日当たり、風通しなどすべて良いことはもちろん、住み心地も便利で良い)
−竜門雑誌 第二五四号(渋沢栄一記念財団『渋沢栄一伝記資料』第29巻より引用)
三田綱町は麻布十番駅の方面から日向坂を上がった小高い場所にあります。深川の邸宅の表座敷を移築した邸宅は、和風の木造二階建てで、昭和4年(1929)には一部を取り壊して洋館が増築されました。今は高層ビルに囲まれた地域も、おそらく渋沢が暮らした当時は今より周辺の景色が見渡せたことでしょう。この一節は渋沢ができたばかりの三田の家を大層好んでいたことが伺える記録です。

後年、屋敷を継いだのは栄一の孫・渋沢敬三でした。長きにわたって栄一の仕事を助け、実質的な後継者となった敬三も、日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任した港区ゆかりの人物として知られています。民俗学にも造詣が深かった敬三は車庫の2階にアチック・ミュージアムという博物館を作り、全国各地の民具を保管しました。その後、戦後の昭和24年(1949)に建物と敷地は国の所有となり、大蔵大臣公邸を経て、現在は三田共用会議所になっています。渋沢家が暮らした建物は建て替えを迎えた平成3年(1991)に青森県三沢市の古牧温泉へ移築され、来年に都内への再移築が決まっています。

港区に残る明治近代産業の記憶

渋沢栄一の足跡以外にも港区には明治日本における近代化の薫りを今に伝える場所があります。

大政奉還の後、江戸城下にあった大名屋敷の多くは明治政府に収公され、さまざまな形で活用されました。現在の港区にも大名屋敷だった場所は多くあり、例えば、慶應義塾大学の三田キャンパスは肥前島原藩の下屋敷跡に、青山霊園は美濃郡上藩の下屋敷跡にあたります。

大名屋敷跡は工場用地としても活用されました。港区では、明治8年(1875)に赤羽橋近くの久留米藩邸跡地に作られた工部省の赤羽製作所(赤羽工作分局)が、日本の工業発展に大きな役割を担いました。

かつて赤羽製作所があった三田1丁目周辺

工部省は明治政府の中で殖産興業政策を先導した省庁です。機械製作における日本最初の官営工場だった赤羽製作所ではボイラーや旋盤など50種以上の先進的な工作機械のほか、鉄道や橋の鉄製部材などが作られ、工業の進歩に多大な貢献を果たしました。

また、赤羽製作所があった古川沿いは、明治から昭和にかけてそのほかにも大小の工場が集まる工業の一大集積地として知られていました。天現寺橋を境に渋谷川から呼称を変え、古川橋、一之橋、浜崎橋を通じて東京湾に流れる全長約4.4kmの古川は船での運送に優れ、一大工業地帯となった川沿い地域には次第に商店や住居も増えていきました。芝浦一丁目に本社ビルがある東芝の前身である芝浦製作所や、先ほど紹介した東京瓦斯株式会社も古川沿いに作られた代表的な工場です。

古川水門がある芝浦運河

かつて赤羽製作所があった場所は今では東京都済生会中央病院などがある地域で、当時の面影が感じられるものは見られません。古川沿いの工業地帯も今ではその趣をかすかに留める程度です。その一方で、かつては町工場の集積地だった地域が今では白金や麻布十番のような都内でも屈指の“憧れの町”になっていると思うと、港区の変化にやや驚きを感じられるかもしれません。

渋沢栄一も訪れた放送産業発祥の地

今もテレビ局が多い港区は、メディア産業発祥の歴史も残る地域です。それを示すスポットのひとつが、JR田町駅芝浦口ロータリーの一角に立つ「放送記念碑」です。

「放送記念碑」

日本の本格的なラジオ放送は、大正14年(1925)の7月に愛宕山の東京放送局(JOAK)で始まりましたが、その4か月前には放送記念碑が立つ場所にあった東京高等工芸学校に仮放送局を置き、試験放送が行われていました。これが日本における放送産業の始まりです。

3月22日に「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局です」という第一声で始まった初の試験放送では、大臣や東京市長を歴任し、この時は東京放送局総裁を務めていた後藤新平が開局の喜びを語り、「文化の機会均等、家庭生活の革新、教育の社会化、さらに経済機能の敏活」というラジオ放送への抱負を述べました。

NHKの前身である愛宕山の東京放送局は晩年の渋沢栄一も何度か訪れた場所でした。大正15年(1926)の11月11日、国際連盟協会の会長を務めていた当時86歳の渋沢は、世界平和記念日であるこの日を記念して「平和記念日について」という講話を行いました。日露戦争と日中戦争、そしてヨーロッパを中心に繰り広げられた第一次世界大戦と戦争が続いたこの時代。ラジオという新しいメディアを通じて渋沢は多くの人に平和の尊さを訴え、この講話は昭和4年(1929)年まで続けられました。

かつて愛宕山にあった東京放送局  国立国会図書館デジタルコレクションより

高さ45mの鉄塔が2基並んだ姿が象徴的だった愛宕山の東京放送局は昭和14年(1939)に放送局としての役割を終え、昭和31年(1956)からは世界初の放送博物館として活用されることに。その後、昭和43年(1968)に建て替えが行われ、現在もNHK放送博物館として日本の放送の歴史を伝えています。

虎ノ門一丁目には日本を代表する主要紙の始まりを伝える記念碑があります。「新聞創刊の地」碑は、かつてこの地にあった旧武家屋敷で、日就社という活版印刷所が明治7年(1874)に読売新聞を創刊したことを記念して立てられたものです。

虎ノ門一丁目の外堀通りに立つ「新聞創刊の地」

外堀通りにある「新聞創刊の地」碑は、読売新聞が創刊された場所です。横浜で活版印刷所を営んでいた日就社という企業がこの地にあった旧武家屋敷に移転し、明治7年(1874)に庶民向けの小新聞を始めたことが読売新聞の始まりでした。当時、この場所は琴平町一番地という番地で、その地名にちなんで念碑には次のような言葉が刻まれています。

『江戸時代の伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号とし、漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した。創刊のころ、漢字教育を与えられていなかった市民から、町名番地にちなんで、「千里を走る虎の門 “こと”に“ひら”がなは“一番”なり」と歓迎された』

分かりやすさと読みやすさで、読売新聞が大衆新聞としての現在の地位を確固たるものにしたことが分かりますね。

港区に残る渋沢栄一の功績を辿りながら、明治・大正時代に港区で起こった近代産業の「発祥の地」を紹介しました。大河ドラマをきっかけに近代産業の起こりが注目されそうな今年、港区に残る近代の歴史スポットもぜひ訪れてみてください。

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