【港区歴史さんぽ】「江戸の港区事件簿」歴史を揺るがした重大事件ゆかりの地を巡る
徳川家康の入府後、将軍様のお膝元として目まぐるしく発展し、各藩の江戸屋敷が集まる武家地、増上寺や芝大神宮に代表される寺社地、そして街道筋に築かれた町人地が交わる江戸の中心地のひとつとなった現在の港区。そんな港区は歴史の教科書に載るような重要事件の舞台にもなってきました。そこで今回の港区歴史さんぽは「江戸の港区事件簿」と題して、港区内で起こった重大事件をクローズアップ。それらに関連するスポットを訪ねます。
【元和9年(1623)】禁教令で弾圧を受けたキリシタンたちの悲話
最初に紹介するのは、江戸時代の初期に起こった事件です。
JR田町駅の西口から徒歩約8分。かつて東海道から江戸に入る際の入り口であり、幕府の政策や掟を掲示した高札場が設けられていた「札の辻」が地名の由来である札の辻交差点を渡り、品川方面へ少し歩いた広場の小高いところに「元和キリシタン遺跡」の石碑が立っています。
JR田町駅の西口から徒歩約8分。かつて東海道から江戸に入る際の入り口であり、幕府の政策や掟を掲示した高札場が設けられていた「札の辻」が地名の由来である札の辻交差点を渡り、品川方面へ少し歩いた広場の小高いところに「元和キリシタン遺跡」の石碑が立っています。
ここは、慶長17年(1612)に幕府が設けた禁教令にまつわる場所です。天下を収めた徳川家康は、この年、全国的に広まりつつあったキリスト教に危機を感じて禁教令を出し、信者に改宗を迫りました。この時代のキリシタン弾圧というと、寛永14年(1637)に現在の長崎県で起こった島原・天草一揆が有名ですが、3代・家光の時代にあたる元和9年の12月に江戸でも大規模なキリシタンの処刑が行われました。
石碑の隣にある説明板によると「処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら五十人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれた」とあり、このあたりが処刑場だったと推測されています。
このうち、原主水は徳川家康に長く仕えた旗本でしたが、棄教に抵抗して駿府城を追放された悲劇の人物です。キリシタンたちは市中引き回しにされた上で火あぶりの刑にされたといいます。さらに、それから15年後の寛永15年(1638)にも、ここで多くのキリシタンが処刑されたという記録が残っています。
このうち、原主水は徳川家康に長く仕えた旗本でしたが、棄教に抵抗して駿府城を追放された悲劇の人物です。キリシタンたちは市中引き回しにされた上で火あぶりの刑にされたといいます。さらに、それから15年後の寛永15年(1638)にも、ここで多くのキリシタンが処刑されたという記録が残っています。
【元禄15年(1703)】主君への忠義を果たした『忠臣蔵』の舞台
次の事件は、江戸中期のできごと。多くの人が『忠臣蔵』としてよく知っているであろう、赤穂義士四十七士の吉良邸討ち入りです。
吉良邸のあった場所こそ墨田区ですが、港区にも討ち入りのきっかけとなった江戸城松之廊下事件の後に浅野内匠頭が切腹をした地や、内匠頭と義士たちが眠る泉岳寺といった関連スポットが数多くあります。忠臣蔵ゆかりの地については、下記の記事で詳しく紹介していますので、ぜひご覧ください。
(DATA)
【港区歴史さんぽ】赤穂浪士の忠義に古き良き日本人の魂を感じる! 東京・港区「忠臣蔵」ゆかりの地めぐり
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/articles/450
(DATA)
【港区歴史さんぽ】赤穂浪士の忠義に古き良き日本人の魂を感じる! 東京・港区「忠臣蔵」ゆかりの地めぐり
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/articles/450
【文化2年(1805)】歌舞伎や落語の題材にもなった「め組の喧嘩」
江戸の町の様子を今に伝える「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉。これは、江戸では激しい火事が多いため火消しの活躍が華々しかったということと、江戸っ子は気が早くて喧嘩っ早いということを表しています。「め組の喧嘩」は、そんな江戸の火消しと喧嘩にまつわる事件です。
江戸時代、繁華街にある神社の境内では、芝居や相撲の興行が開かれて庶民の娯楽になっていました。そして、この事件が起こったのは、文化2年に芝神明宮の境内で行われていた花相撲(巡業興行)でのこと。
当時、地元の鳶職人は木戸銭(入場料)を払わなくても“顔パス”で相撲を見ることができました。地元の火消し「め組」の辰五郎も顔だけで客席に入ろうとしましたが、連れの一人が地元の職人ではなかったため、入り口で口論に。たまたま通りかかった力士の九竜山がそこに加わって騒動に発展。職人の一人が普段は火事の際に鳴らす半鐘を鳴らして仲間を集めたため、「め組」の職人と力士勢を巻き込み、1名の死者を出すほどの大喧嘩になりました。
ここで出てくる「芝神明宮の境内」とは、芝大門にある「芝大神宮」のこと。36名が奉行から裁きを受けた事件は瞬く間に江戸中の話題となり、後に脚色も加えられて歌舞伎や落語の人気演目に。今でも江戸の大事件として広く伝わる話になったのです。
当時、地元の鳶職人は木戸銭(入場料)を払わなくても“顔パス”で相撲を見ることができました。地元の火消し「め組」の辰五郎も顔だけで客席に入ろうとしましたが、連れの一人が地元の職人ではなかったため、入り口で口論に。たまたま通りかかった力士の九竜山がそこに加わって騒動に発展。職人の一人が普段は火事の際に鳴らす半鐘を鳴らして仲間を集めたため、「め組」の職人と力士勢を巻き込み、1名の死者を出すほどの大喧嘩になりました。
ここで出てくる「芝神明宮の境内」とは、芝大門にある「芝大神宮」のこと。36名が奉行から裁きを受けた事件は瞬く間に江戸中の話題となり、後に脚色も加えられて歌舞伎や落語の人気演目に。今でも江戸の大事件として広く伝わる話になったのです。
【万延元年(1861)】幕末の激動の中で命を落とした天才通訳官
そして時は幕末。ペリー率いる黒船の来航から5年後の安政5年(1858)に日米修好通商条約が結ばれると、翌年には麻布・善福寺の境内に最初のアメリカ公使館が開設されました。そして、その当時、初代駐日公使だったダウンゼント・ハリスの右腕として活躍し、同条約の締結にも貢献したのが、通訳兼書記のヘンリー・ヒュースケンです。
オランダのアムステルダムで生まれたヒュースケンは、20代の若さながら4か国語を駆使する語学堪能な人物でした。その能力を生かして各国外交官との関係構築にも尽力しました。ところが万延元年1月のこと。現在の飯倉公園に置かれていたプロシア使節団の宿舎を訪れた日、善福寺の公使館へ帰る途中だった彼は中之橋付近で薩摩藩士の襲撃に遭い、その際に負った腹部の傷によって命を落としてしまいます。攘夷思想も強かった当時、激動の時代の中で起きた、とても傷ましい事件でした。
ヒュースケンの遺体は土葬が可能な光林寺に移されて埋葬されました。今も境内にはお墓が残されています。志半ばにして異国の地で無念にも命を落とした彼は、後世の日本に貢献した影の偉人といってもいいでしょう。
【文久元年(1861)】公使の行動が反感を呼び起こした「東禅寺事件」
開国が進む中、日本はアメリカに続いて各国と通商条約を結び、港区には、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国が最初の公使館を設置しました。そのうちイギリスは高輪の東禅寺に初の在日公使館を置いています。この公使館に初代公使に着任したのは、上海領事などを経て来日したラザフォード・オールコックでした。
文久元年、外国人として初めて富士山頂に立つなどアクティブな性格の持ち主だった彼は、香港からの帰路で長崎に到着した際、海路で江戸へ帰るよう勧めた幕府の意見に反し、陸路を使って江戸に戻りました。しかし、これが「神の地である日本を外国人が汚した」として攘夷派の反感を買うことになり、東禅寺に帰還直後、水戸藩浪士から襲撃を受けることになります。
文久元年、外国人として初めて富士山頂に立つなどアクティブな性格の持ち主だった彼は、香港からの帰路で長崎に到着した際、海路で江戸へ帰るよう勧めた幕府の意見に反し、陸路を使って江戸に戻りました。しかし、これが「神の地である日本を外国人が汚した」として攘夷派の反感を買うことになり、東禅寺に帰還直後、水戸藩浪士から襲撃を受けることになります。
この事件により、公使館の警備にあたっていた日本人警備兵含む双方に負傷者が発生。オールコックは無傷でしたが、部下2人が負傷を負いました。この地では、その1年後にも公使館を警備していた松本藩士が代理公使を襲撃するという事件が起こり、この両方の件を合わせて「東禅寺事件」といいます。現在、国指定の史跡となった東禅寺は当時のままの奥書院(非公開)と玄関を残し、三重塔を持つ禅寺として、多くの参拝客を迎えています。
今回は江戸時代の重大事件という、ちょっと変わった切り口で港区内の歴史スポットを紹介しました。いずれのスポットも公共交通で簡単にアクセスできるので、ぜひ他の観光と合わせて訪れてみてください。