赤坂氷川神社と地域の絆とは?宮神輿や江戸型山車が巡行する「赤坂氷川祭」に込められた願い
朝晩の風にほんのりと秋の気配が感じられるようになりました。港区観光協会では、この季節に足を運びたいおすすめの秋祭りをピックアップ。第2弾の今回は、東京都港区赤坂六丁目に鎮座する「赤坂氷川神社」で毎年9月に行われる「赤坂氷川祭」をご紹介します。今年の赤坂氷川祭の見どころは、荘厳な宮神輿と江戸型山車二本の連合巡行です。大都会の真ん中にありながら、一千年余の歴史と江戸時代の情景を今に伝える赤坂氷川神社。その深い歴史と、祭りや地域にかける熱い思いについて、宮司である惠川義孝さんにお話を伺いました。
江戸の情景を今に遺す社殿と戦火を生き延びた大銀杏
享保14年(1729年)に現社殿が建立された
――まずは、赤坂氷川神社を訪れる方に注目してほしいポイントや、御社殿の見どころについてお聞かせください。
「当社の御社殿は、東京の中でも江戸時代からそのままの姿で残る大変貴重なものです。徳川吉宗公の命によって建立されましたが、当時は“享保の改革”という質素倹約が重んじられた厳しい世相でした。そのため、華美な装飾は施されていないシンプルな造りになっています。一方で、将軍家の命によって建てられたということもあり、雲形の組み木や垂木といった社殿の装飾には、ダイナミックさと繊細さが兼ね備わっています。一般の方には外からご覧いただけないのですが、社殿の中には遷座二百年祭を記念して、戦前の昭和4年(1929年)に長華崖によって奉納されたきらびやかな天井絵も残されています」
「当社の御社殿は、東京の中でも江戸時代からそのままの姿で残る大変貴重なものです。徳川吉宗公の命によって建立されましたが、当時は“享保の改革”という質素倹約が重んじられた厳しい世相でした。そのため、華美な装飾は施されていないシンプルな造りになっています。一方で、将軍家の命によって建てられたということもあり、雲形の組み木や垂木といった社殿の装飾には、ダイナミックさと繊細さが兼ね備わっています。一般の方には外からご覧いただけないのですが、社殿の中には遷座二百年祭を記念して、戦前の昭和4年(1929年)に長華崖によって奉納されたきらびやかな天井絵も残されています」
木々が生い茂る境内
――豊かな自然にも驚きました。
「境内に一歩足を踏み入れていただくと、鬱蒼とした木々や信長塀と呼ばれる練塀などがあり、近代都市である赤坂にありながら、あまり手を加えられていない昔ながらの江戸の情景が色濃く残っているのを感じていただけると思います。現在の神社は石畳が綺麗に整備されているところも多いですが、当社は石畳一つをとっても少しズレがあったりします。古めかしいと言われるかもしれませんが、逆に言えば昔の風景がそのまま残っているということが、他にはない見どころなのかなと思います」
「境内に一歩足を踏み入れていただくと、鬱蒼とした木々や信長塀と呼ばれる練塀などがあり、近代都市である赤坂にありながら、あまり手を加えられていない昔ながらの江戸の情景が色濃く残っているのを感じていただけると思います。現在の神社は石畳が綺麗に整備されているところも多いですが、当社は石畳一つをとっても少しズレがあったりします。古めかしいと言われるかもしれませんが、逆に言えば昔の風景がそのまま残っているということが、他にはない見どころなのかなと思います」
焦げた跡が残る推定樹齢450年の大銀杏
――まさに江戸時代の姿がそのまま残っているということですね。境内にそびえ立つ大銀杏も、その歴史を今に伝えるシンボルだと思いますが、こちらの歴史についても教えていただけますか。
「今、御社殿があるこの赤坂の場所は、300年前は浅野内匠頭の正室である瑶泉院様の屋敷があった場所です。大銀杏はその頃からこの地で生育していました。実はこの銀杏、裏側に回っていただくとわかるのですが、木の幹の大部分がありません。戦時中、空襲の際に焼夷弾の直撃で焼損し、今でも焦げた跡が残っています。数年前に専門家に調べていただいたところ、中身の87%が空洞になっており、残りの13%の幹で今もなお生きている状態だそうです。今後いつまで保つかはわからないのですが、昔から赤坂の町全体を高台から見守ってきた尊い木です。私が幼少の頃は、赤坂の料亭の方が境内に落ちた銀杏を拾いに来て、お料理に出されていたということもありました」
「今、御社殿があるこの赤坂の場所は、300年前は浅野内匠頭の正室である瑶泉院様の屋敷があった場所です。大銀杏はその頃からこの地で生育していました。実はこの銀杏、裏側に回っていただくとわかるのですが、木の幹の大部分がありません。戦時中、空襲の際に焼夷弾の直撃で焼損し、今でも焦げた跡が残っています。数年前に専門家に調べていただいたところ、中身の87%が空洞になっており、残りの13%の幹で今もなお生きている状態だそうです。今後いつまで保つかはわからないのですが、昔から赤坂の町全体を高台から見守ってきた尊い木です。私が幼少の頃は、赤坂の料亭の方が境内に落ちた銀杏を拾いに来て、お料理に出されていたということもありました」
勝海舟ゆかりの稲荷や「縁結び」の祈り
明治31年(1898年)に四社の稲荷を合祀してできた四合稲荷と狛犬
――境内の狛犬や、勝海舟とのゆかりについても教えていただけますでしょうか。
「普通、神社の狛犬は一対か二対ですが、当社には七対の狛犬があり、それぞれ祭礼や式典に合わせて奉納されたものです。一番古いものは延宝3年(1675年)の狛犬で、ずんぐりむっくりしていて可愛い形をしています。そこからだんだんとシャープになったり、獅子山といって親子の狛犬になったりと、時代ごとの流行や技巧の変化を見て取ることができます。また、赤坂は勝海舟が生涯の多くを過ごした土地です。当社へも参拝や剣の稽古、あるいは刺客から逃れるために訪れたと伝わっています。境内に『四合稲荷(しあわせいなり)』というお稲荷さんがありますが、これも勝海舟が名付けたものです。かつて赤坂にたくさんあった武家屋敷に鎮座していたお稲荷さん四社をお預かりすることになり、まとめて集合住宅のようにお祀りしたことから、『四社を合祀』という意味と、『志を合わせる』、そして『幸福のしあわせ』をかけて、四合稲荷と名付けられました。扁額には勝海舟の直筆が残っています」
「普通、神社の狛犬は一対か二対ですが、当社には七対の狛犬があり、それぞれ祭礼や式典に合わせて奉納されたものです。一番古いものは延宝3年(1675年)の狛犬で、ずんぐりむっくりしていて可愛い形をしています。そこからだんだんとシャープになったり、獅子山といって親子の狛犬になったりと、時代ごとの流行や技巧の変化を見て取ることができます。また、赤坂は勝海舟が生涯の多くを過ごした土地です。当社へも参拝や剣の稽古、あるいは刺客から逃れるために訪れたと伝わっています。境内に『四合稲荷(しあわせいなり)』というお稲荷さんがありますが、これも勝海舟が名付けたものです。かつて赤坂にたくさんあった武家屋敷に鎮座していたお稲荷さん四社をお預かりすることになり、まとめて集合住宅のようにお祀りしたことから、『四社を合祀』という意味と、『志を合わせる』、そして『幸福のしあわせ』をかけて、四合稲荷と名付けられました。扁額には勝海舟の直筆が残っています」
昭和49年(1974年)に赤坂青山料飲組合により建立された包丁塚
――ユニークな見どころとしては「包丁塚」もありますね。
「昔の赤坂には料亭が200軒ほどありました。魂のこもった包丁をそのまま捨てるには忍びないということで、本来はお寺さんに納めるものですが、地域との繋がりが深かったため、料飲組合が包丁塚を建立して境内に包丁を納めています。今でも問い合わせをいただくのですが、現在はお納めは一度限りでお断りしており、その代わり感謝の気持ちを込めて年に一回、『包丁塚祭』という神事を奉仕しております」
「昔の赤坂には料亭が200軒ほどありました。魂のこもった包丁をそのまま捨てるには忍びないということで、本来はお寺さんに納めるものですが、地域との繋がりが深かったため、料飲組合が包丁塚を建立して境内に包丁を納めています。今でも問い合わせをいただくのですが、現在はお納めは一度限りでお断りしており、その代わり感謝の気持ちを込めて年に一回、『包丁塚祭』という神事を奉仕しております」
季節の色の和紙を結い、願い事の成就を祈る「縁結ひ(えんゆい)」
――地域の繋がりという点では、「茜草」を育てる取り組みもされていますね。さらに、「東京三大縁結び神社」としても知られていますが、夜間の「縁結び参り」も大変人気だと伺いました。
「はい。赤坂の地名の由来の一つとされている茜草を、地域の小学校や団体と一緒に育てていますが、これは草を育てること自体が目的ではなく、赤坂の歴史を知り、地域に愛着を持ってもらうきっかけになればと考えてのことです。当社の御朱印は本物を追求したいという思いから、育てた茜草はもちろん、境内の落ち葉や枯れ枝などを原料にして草木染めを行っており、境内にないものは一切使わないというこだわりを持っています。縁結びについては、昔からお参りをしてご縁をいただいたという方が多くいらっしゃったからこそ、自然とそう呼ばれるようになったのだと思います。神社として公式に『三大縁結び神社』と名乗っているわけではありませんが、皆様の努力を神様が後ろから背中を押してくださると信じてご奉仕をしています。『縁結び参り』は、日中にお参りできない方のために月1回、夜間にご祈祷を行うもので、20年ほど続いています。毎月、受付開始の9時と同時に定員が埋まってしまうほどで、これまで何千名もの方にご祈願を受けていただいております」
「はい。赤坂の地名の由来の一つとされている茜草を、地域の小学校や団体と一緒に育てていますが、これは草を育てること自体が目的ではなく、赤坂の歴史を知り、地域に愛着を持ってもらうきっかけになればと考えてのことです。当社の御朱印は本物を追求したいという思いから、育てた茜草はもちろん、境内の落ち葉や枯れ枝などを原料にして草木染めを行っており、境内にないものは一切使わないというこだわりを持っています。縁結びについては、昔からお参りをしてご縁をいただいたという方が多くいらっしゃったからこそ、自然とそう呼ばれるようになったのだと思います。神社として公式に『三大縁結び神社』と名乗っているわけではありませんが、皆様の努力を神様が後ろから背中を押してくださると信じてご奉仕をしています。『縁結び参り』は、日中にお参りできない方のために月1回、夜間にご祈祷を行うもので、20年ほど続いています。毎月、受付開始の9時と同時に定員が埋まってしまうほどで、これまで何千名もの方にご祈願を受けていただいております」
神輿と山車の復活で繋ぐ赤坂の未来
地域との繋がりも深い赤坂氷川神社
――惠川宮司ご自身の経歴についてもお聞かせください。過去には一般企業でお仕事をされていたと伺いましたが、神社を継ぐまでの道のりを教えていただけますか。
「私は次男で、兄が神社を継ぐことになっていたため、最初は神社に関わることはないだろうと思い、流通業の一般企業に入社しました。バイヤーとして働いた後、労働組合の専従役員になり、副委員長まで務めました。毎日4~5時間しか眠れない非常に過酷な日々でしたが、命令ではなくみんなで協力し合うという組合活動の精神を深く学びました。ところが、今から12年ほど前に兄が他界し、私が神社を継ぐことになりました。悩みに悩み抜いた末、当時の組合の委員長の前で退職を申し出たのを昨日のことのように覚えています。違う環境へ移る不安はありましたが、労働組合で培った“みんなと一緒に力を合わせる”という経験は、神社でのご奉仕や、お祭りの運営に大いに活きています。現在、赤坂の地域は地元企業の社長さんや商店街の方々など、横の繋がりが非常に強く、私たちは親しみを込めて“村”と呼んでいるほど、助け合いの精神が根付いています」
「私は次男で、兄が神社を継ぐことになっていたため、最初は神社に関わることはないだろうと思い、流通業の一般企業に入社しました。バイヤーとして働いた後、労働組合の専従役員になり、副委員長まで務めました。毎日4~5時間しか眠れない非常に過酷な日々でしたが、命令ではなくみんなで協力し合うという組合活動の精神を深く学びました。ところが、今から12年ほど前に兄が他界し、私が神社を継ぐことになりました。悩みに悩み抜いた末、当時の組合の委員長の前で退職を申し出たのを昨日のことのように覚えています。違う環境へ移る不安はありましたが、労働組合で培った“みんなと一緒に力を合わせる”という経験は、神社でのご奉仕や、お祭りの運営に大いに活きています。現在、赤坂の地域は地元企業の社長さんや商店街の方々など、横の繋がりが非常に強く、私たちは親しみを込めて“村”と呼んでいるほど、助け合いの精神が根付いています」
通常の神輿の8倍もの重さがある宮神輿
――その地域の方々と力を合わせて行われるのが、9月11日から始まる「赤坂氷川祭」です。歴史や祭りへの思いについてお聞かせください。
「赤坂氷川神社はもともと赤坂見附の方にありましたが、徳川吉宗公の命で現在の場所に遷りました。その吉宗公や家重公の庇護を受け、当時は“江戸三大祭り”の一つと呼ばれるほど、『赤坂氷川祭』は特別な地位にありました。戦後、宮神輿や江戸型山車は失われてしまっていたのですが、平成18年(2006年)に赤坂氷川山車保存会が設立され、山車の復興に向けた活動が始まりました。そして、吉宗公の将軍就任300年にあたる平成28年(2016年)には、宮神輿が復元新調され、宮神輿と江戸型山車の連合巡行が約100年ぶりに実現しました。通常の町会神輿の8倍もの重さがある大きな宮神輿を復元新調し、残された山車を修復・復元して巡行させることには当初懐疑的な意見もありましたが、皆で一つの大きなことを成し遂げることで、地域との深い絆が生まれました。近年は高層マンションが増え、町会などの地域の繋がりが希薄になりつつありますが、お祭りなら新しく引っ越してきた方も参加しやすいですよね。お祭りを通じて顔見知りになり、自助の次にある“共助”の精神を育むことが、『赤坂氷川祭』を大きくする目的の一つでもあります」
「赤坂氷川神社はもともと赤坂見附の方にありましたが、徳川吉宗公の命で現在の場所に遷りました。その吉宗公や家重公の庇護を受け、当時は“江戸三大祭り”の一つと呼ばれるほど、『赤坂氷川祭』は特別な地位にありました。戦後、宮神輿や江戸型山車は失われてしまっていたのですが、平成18年(2006年)に赤坂氷川山車保存会が設立され、山車の復興に向けた活動が始まりました。そして、吉宗公の将軍就任300年にあたる平成28年(2016年)には、宮神輿が復元新調され、宮神輿と江戸型山車の連合巡行が約100年ぶりに実現しました。通常の町会神輿の8倍もの重さがある大きな宮神輿を復元新調し、残された山車を修復・復元して巡行させることには当初懐疑的な意見もありましたが、皆で一つの大きなことを成し遂げることで、地域との深い絆が生まれました。近年は高層マンションが増え、町会などの地域の繋がりが希薄になりつつありますが、お祭りなら新しく引っ越してきた方も参加しやすいですよね。お祭りを通じて顔見知りになり、自助の次にある“共助”の精神を育むことが、『赤坂氷川祭』を大きくする目的の一つでもあります」
境内では江戸型山車を展示している
――また、次の目標として、2030年の御遷座300年に向けた複数の山車巡行も目指されているそうですね。最後に、読者の方や神社を訪れる方へ向けて、メッセージをお願いします。
「2030年に御社殿の建立300年を迎えるにあたり、現在修復を終えた8本の山車すべてを安全に同時巡行させることを大きな目標としています。今年の『赤坂氷川祭』は宮神輿が主軸の年となり、9月13日の神幸祭では神社隊列、宮神輿、そして江戸型山車2本の連合巡行を予定しています。今年は宮神輿の復元新調から10年、山車保存会設立から20年という節目の年です。“和を以て貴しと為す”という言葉がございますが、異なる立場の方々が一堂に会し、協力して成し遂げたお祭りの熱気をぜひ肌で感じていただきたいです。そして、神社自体は心を鎮める祈りの場です。新緑の木漏れ日や、短い期間ですが紅葉に染まる銀杏、時には雪に包まれる静寂など、四季折々の姿を見せてくれます。江戸から残る社殿と鬱蒼とした森の中で、日常の喧騒から離れ、心を穏やかにする時間をぜひ過ごしてみてください」
「2030年に御社殿の建立300年を迎えるにあたり、現在修復を終えた8本の山車すべてを安全に同時巡行させることを大きな目標としています。今年の『赤坂氷川祭』は宮神輿が主軸の年となり、9月13日の神幸祭では神社隊列、宮神輿、そして江戸型山車2本の連合巡行を予定しています。今年は宮神輿の復元新調から10年、山車保存会設立から20年という節目の年です。“和を以て貴しと為す”という言葉がございますが、異なる立場の方々が一堂に会し、協力して成し遂げたお祭りの熱気をぜひ肌で感じていただきたいです。そして、神社自体は心を鎮める祈りの場です。新緑の木漏れ日や、短い期間ですが紅葉に染まる銀杏、時には雪に包まれる静寂など、四季折々の姿を見せてくれます。江戸から残る社殿と鬱蒼とした森の中で、日常の喧騒から離れ、心を穏やかにする時間をぜひ過ごしてみてください」
【赤坂氷川神社・赤坂氷川祭】
開催期間:令和8年9月11日(金)~15日(火)
9月11日(金)宵宮巡行
9月12日(土)子供巡行
9月13日(日)神幸祭
9月15日(火)例祭
https://www.akasakahikawa.or.jp/hikawasai-r08/
開催期間:令和8年9月11日(金)~15日(火)
9月11日(金)宵宮巡行
9月12日(土)子供巡行
9月13日(日)神幸祭
9月15日(火)例祭
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