観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
水野監物邸跡
間十次郎ら9名は水野藍物邸に預けられ切腹しました。現在、石灯ろうが残されていますが、当時の水野藍物の中屋敷はここより北へ50mほど寄った所にありました。
水盤舎
もと清揚院殿霊廟の一部であり、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れたものを、現在地に移築したものです。徳川将軍家霊廟建築を伝える貴重な遺構のひとつです。
神明坂
天祖神社を元神明というところから神明坂と呼びました。馬場坂という説もありますが、綱の手引坂との混同があるようです。
神谷町光明寺
光明寺は昔から「梅のお寺」として知られてきました。徳川家康が光明寺の梅を喜んだ故事に因み、3代将軍・家光から「梅上山」の山号を贈られたことが、そのきっかけです。江戸時代、幕府への新年寺社献上の第1番は光明寺の梅とされていたそうです。
神宮外苑いちょう並木
イチョウ並木の距離は約 300mあります。その間には 146本のイチョウがほぼ9m間隔で植えられ、黄色に染まったトンネルの中を歩いていくような、独特の景観をつくり出しています。この造園を手がけたのは、日本の近代造園の師と呼ばれた折下吉延博士でした。絵画館に向かって、木の高さとゆっくりと下る道の勾配を計算し、遠近法に基づいてイチョウが植えられています。その風景はまるで一幅の名画のようで、イチョウの木々の織りなす美観は格別です。
新富士見坂
江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治幕末大正ごろに開かれた坂で、富士がよく見えるためこう呼ばれました。
新芝橋
昭和32年架設、長さ28.1m、幅13.5mのコンクリート橋。橋名は新芝町にかけられた橋ということです。昭和62年4月架け替え。
新芝運河沿緑地
竹芝橋から香取橋につづく遊歩道に設置された10基のガス灯は、夕闇が迫ると自動的に点灯し、レモン色の光が雰囲気を盛り上げてくれます。文明開化の香りを漂わせるガス灯は芝浦のシンボルとなっています。また、黒川晃彦作のモニュメント「リバーサイドトリオ」は、トランペット、フルート、サックスを吹いている三人の像。
新芝運河沿い
きれいに整備された遊歩道で、おしゃれなガス燈がとてもすてきです。夕暮れには自動的にガス燈が点灯し、ロマンチックな散歩が楽しめます。しばらく歩くと、ベンチに腰掛けて楽器を吹いている人を発見。ですが、それは楽器を演奏する3人組の銅像でした。「リバーサイドトリオ」という黒川晃彦氏の作品(1992)です。実際に隣に座ってみると、2人の男性の逞しい体格にちょっとびっくり。静かに耳を傾けるとジャズの音色が聴こえてくるようです。
新坂
できた当時は、新しい坂の意味でしたが、開かれたのは古く元禄12年です。しんさかとも呼びます。
新坂
新しく開かれた坂の意味ですが、開かれたのは、明治20年代と推定されます。
新橋赤レンガ通り
新橋2丁目から6丁目まで続く通り。名前のとおり、道路にはレンガタイルが敷き詰められています。 明治5年の和田倉門外から起きた火災で、銀座、築地一帯が焼失してしまい、明治政府は東京府に対し火災を免れるためレンガを使って建築する方針を決定しました。その後、新橋赤レンガ通りに、赤レンガ造りの『清隆館』という勧工場が出来たことが名前の由来といわれています。
新橋ガード下
新橋駅周辺~有楽町間のJR高架下に広がる飲食店街です。
新橋SL広場
テレビの街頭インタビューでおなじみの新橋駅西口広場。SLが飾ってあるこの新橋駅は、鉄道創設起点。SLから地下鉄、そして新交通ゆりかもめと、今も鉄道起点として人々に親しまれています。中央区銀座から飲食店が軒を連ねるがこちらは庶民派。いつも勤め帰りの人などで賑わっています。12月から1月にかけて、SLにイルミネーションが施されます。
新榎坂
坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名によぶことになりました。
植木坂
この付近に植木屋があり、菊人形を始めたといいます。外苑東通りからおりる所という説もあります。
讃岐稲荷神社/小白稲荷神社
ここは讃岐稲荷と小白稲荷の2つの稲荷神社が1箇所にあります。元々は讃岐稲荷がこの場所にあり、昭和13年にこの周辺の区画整理のため、小白稲荷もこの場所に移されて、以来2つの稲荷が合祀されているとのことです。
山田耕筰の碑
マンションの敷地内に、山田耕作が「からたちの花」を作曲した南風荘の跡地があります。石碑には「からたちの花」の楽譜が書かれています。
三分坂
急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん:百円あまり)増したためという。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もあります。さんぶでは4分の3両になるので誤り。
三田台公園
すぐ近くの伊皿子貝塚遺跡より発掘された貝層断面や縄文時代の竪穴式住居などが復元展示されています。原始・古代の人びとの生活の様子を知ることのできる遺跡公園です。
三田薩摩屋敷(島津家)跡
江戸の薩摩屋敷は上屋敷・中屋敷・蔵屋敷などがありましたが、最も中心的だったのが三田の上屋敷でした。篤姫も二年余りを上屋敷で過ごしたといわれています。 「薩摩屋敷跡」の石碑は、NEC本社敷地の北側に小さく建てられていますが、当時の屋敷はこの周辺に広大な面積を持っていました。現在この付近にはオフィスビルが立ち並び、往時の面影はありませんが、近くには芝公園や増上寺もあり、都会のオアシスとなっています。
三田国際ビル
敷地は江戸時代は有馬中務家拝領本屋敷、明治以降は陸軍工廠が存在し、その後長らく空き地となっていましたが、大正時代に済生会が建設され、昭和40年代まで済生会中央病院および三田警察署が位置していました。その後、済生会中央病院立て替え費用捻出のために三菱地所に売却されました。三田国際ビルの前の通り(桜田通り)は正面に東京タワーを臨める場所である事や、同ビルの前の歩道に十分な空間がある事などから、テレビドラマのシーンなど頻繁に登場しています。
三光坂
本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ:仏具)坂だったといいますが、日月星の三光などともいいます。
三解脱門
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和8年(1622年)に再建されました。3つの煩悩「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)から解き放たれる(解脱)門です。国の重要文化財で、高さ、間口とも約20mあります。
鮫ヶ橋坂
明治時代まで坂下に鮫河橋という橋があり、この辺りを鮫河橋町と呼んでいたことからこの名が付きました。