観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
新芝運河沿い
きれいに整備された遊歩道で、おしゃれなガス燈がとてもすてきです。夕暮れには自動的にガス燈が点灯し、ロマンチックな散歩が楽しめます。しばらく歩くと、ベンチに腰掛けて楽器を吹いている人を発見。ですが、それは楽器を演奏する3人組の銅像でした。「リバーサイドトリオ」という黒川晃彦氏の作品(1992)です。実際に隣に座ってみると、2人の男性の逞しい体格にちょっとびっくり。静かに耳を傾けるとジャズの音色が聴こえてくるようです。
新坂
できた当時は、新しい坂の意味でしたが、開かれたのは古く元禄12年です。しんさかとも呼びます。
新坂
新しく開かれた坂の意味ですが、開かれたのは、明治20年代と推定されます。
新橋赤レンガ通り
新橋2丁目から6丁目まで続く通り。名前のとおり、道路にはレンガタイルが敷き詰められています。 明治5年の和田倉門外から起きた火災で、銀座、築地一帯が焼失してしまい、明治政府は東京府に対し火災を免れるためレンガを使って建築する方針を決定しました。その後、新橋赤レンガ通りに、赤レンガ造りの『清隆館』という勧工場が出来たことが名前の由来といわれています。
新橋ガード下
新橋駅周辺~有楽町間のJR高架下に広がる飲食店街です。
新橋SL広場
テレビの街頭インタビューでおなじみの新橋駅西口広場。SLが飾ってあるこの新橋駅は、鉄道創設起点。SLから地下鉄、そして新交通ゆりかもめと、今も鉄道起点として人々に親しまれています。中央区銀座から飲食店が軒を連ねるがこちらは庶民派。いつも勤め帰りの人などで賑わっています。12月から1月にかけて、SLにイルミネーションが施されます。
新榎坂
坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名によぶことになりました。
植木坂
この付近に植木屋があり、菊人形を始めたといいます。外苑東通りからおりる所という説もあります。
讃岐稲荷神社/小白稲荷神社
ここは讃岐稲荷と小白稲荷の2つの稲荷神社が1箇所にあります。元々は讃岐稲荷がこの場所にあり、昭和13年にこの周辺の区画整理のため、小白稲荷もこの場所に移されて、以来2つの稲荷が合祀されているとのことです。
山田耕筰の碑
マンションの敷地内に、山田耕作が「からたちの花」を作曲した南風荘の跡地があります。石碑には「からたちの花」の楽譜が書かれています。
三分坂
急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん:百円あまり)増したためという。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もあります。さんぶでは4分の3両になるので誤り。
三田台公園
すぐ近くの伊皿子貝塚遺跡より発掘された貝層断面や縄文時代の竪穴式住居などが復元展示されています。原始・古代の人びとの生活の様子を知ることのできる遺跡公園です。
三田薩摩屋敷(島津家)跡
江戸の薩摩屋敷は上屋敷・中屋敷・蔵屋敷などがありましたが、最も中心的だったのが三田の上屋敷でした。篤姫も二年余りを上屋敷で過ごしたといわれています。 「薩摩屋敷跡」の石碑は、NEC本社敷地の北側に小さく建てられていますが、当時の屋敷はこの周辺に広大な面積を持っていました。現在この付近にはオフィスビルが立ち並び、往時の面影はありませんが、近くには芝公園や増上寺もあり、都会のオアシスとなっています。
三田国際ビル
敷地は江戸時代は有馬中務家拝領本屋敷、明治以降は陸軍工廠が存在し、その後長らく空き地となっていましたが、大正時代に済生会が建設され、昭和40年代まで済生会中央病院および三田警察署が位置していました。その後、済生会中央病院立て替え費用捻出のために三菱地所に売却されました。三田国際ビルの前の通り(桜田通り)は正面に東京タワーを臨める場所である事や、同ビルの前の歩道に十分な空間がある事などから、テレビドラマのシーンなど頻繁に登場しています。
三光坂
本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ:仏具)坂だったといいますが、日月星の三光などともいいます。
三解脱門
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和8年(1622年)に再建されました。3つの煩悩「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)から解き放たれる(解脱)門です。国の重要文化財で、高さ、間口とも約20mあります。
鮫ヶ橋坂
明治時代まで坂下に鮫河橋という橋があり、この辺りを鮫河橋町と呼んでいたことからこの名が付きました。
雑魚場跡(本芝公園)
江戸前期より、本芝・金杉の漁民達は東海道で雑魚を中心とした市を立て鮮魚を商いました。芝の名を冠した「シバエビ」 漁が代表的漁業でしたが、幕末以降衰退して海苔の養殖場へ変わり、昭和37(1962)年、遂に漁業権を放棄しました。
薩摩藩邸焼き討ち事件跡
慶応3年、戊辰戦争の発端となった「薩摩藩邸焼き討ち事件」が勃発し、屋敷は全焼。跡地は「薩摩ッ原」と呼ばれました。明治に下ると、いまの農事試験場にあたる「三田勧業局育種場」の一部となり、競馬も行われていたとか。
札の辻交差点
すぐ横にはJRの線路(新幹線、東海道線、山手線、京浜東北線等)が走っており、芝浦方面には「札の辻橋」が架けられています。この場所は東海道から江戸への正面入口であり、元和2年には、芝口門という門が建てられました。札の辻という名称の由来は、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたことによります。当時この場所からは江戸湾が眺められ、絶好の景色であったといいます。
桜坂
明治中期に新しく作られた道筋で、坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名がつきました。 桜坂からスペイン坂へと続くアークヒルズの外周道路に、約150本のソメイヨシノが植えられています。サクラのトンネルは、夜にライトアップされ毎年多くの人が訪れます。
済海寺(最初のフランス大使館跡)
安政6年8月フランス公使宿館の設置となり、公使ド・ベルクールが駐在しました。寺側の記録「外国書願留(がいこくしょねがいどめ)」1冊(区指定)が残っています。
最初のプロイセン使節宿所跡(広岳院)
広岳院は慶應元年から一時期、プロイセンの宿として利 用されました。プロイセンはこの付近(この一帯は二本榎とよばれていた)の朗惺寺 や承教寺、三田小山の永隆寺などを候補とし、その中から境内の広さや建物の規模な どを考慮して選んだといいます。現存する広岳院の本堂は、弘化年間の火事の後に再建されたもので、幕末の外国公館として使われていた建物の現存例としては唯一のものです。
最初のイギリス公使館跡(東禅寺)
イギリスの初の公使館となった東禅寺。三田・高輪周辺のお寺は、フランス、ロシア、プロシア(ドイツ)、オランダなどの公使館となりました。
紺屋坂
こうやざかとも呼びます。この坂付近に紺屋(染物屋)があったのでこう呼んでいました。また江戸時代、坂のがけ下がごみ捨て場だったことからごみ坂ともいいました。