観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
港区立郷土歴史館
区内の遺跡から出土した資料や古文書、浮世絵、民具などを展示。「さわれる展示室」には、ミンククジラの骨格、縄文土器などがあります。
港区役所
JR山手線浜松町駅北口 徒歩10分、地下鉄浅草線、大江戸線大門駅 A6出口徒歩5分、三田線御成門駅A2出口 徒歩5分です。区役所前では、平和の女神像を見ることができます。
江川氏調練場跡
伊豆韮山で反射炉を造った江川太郎左衛門は、天保12年、芝新銭座に「高島流洋式砲術教授」の教場を設けました。佐久間象山・橋本左内・桂小五郎・川路聖謨ら維新に活躍した多くの人材を輩出しました。 ※現在は港区立イタリア公園になっています。
江戸時代の石垣
この石垣は旧芝離宮恩賜庭園の南側から発掘され、築地の護岸用の石垣として用いられていました。江戸時代は、永井佐渡守や丹波左京大夫の屋敷、あるいは松平越前守陣屋として使用されていたといわれています。
江戸見坂
江戸の中心部に市街がひらけて以来、その大半を展望することが出来たために名づけられた坂です。
広尾稲荷神社
元禄のころ、将軍別荘の麻布富士見御殿鎮守として勧請されたと伝えられています。古くは富士見稲荷または千歳寺稲荷と呼ばれていました。拝殿の7枚つなぎの天井板に描かれた竜は、日本画の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作とされています。また、石掘沿いに3基の庚申供養塔(区有形文化財)がまつられており、正面には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3猿が刻まれています。
広尾の庚申塔
庚申信仰を表現する塔として港区の有形文化財に指定されています。正面には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3猿が刻まれています。
幸稲荷神社
国産みの神・伊弉冉命を祀る、東京で最も古い神社の一つ。初めは岸之稲荷と称しましたが、氏子・信者中に幸事が続出し、いつ頃からか幸稲荷神社と呼ばれるようになりました。
光林寺
安政3年7月ハリスとともに下田に着き、その片腕として日米修好通商条約締結交渉に活躍したオランダ人ヒュースケンの墓(区史跡)があります。アムステルダムで生まれたヒュースケンは渡航先のアメリカで、ドイツ語、フランス語等もできる語学力をハリスにかわれて日本に赴任しました。陽気闊達な気質と日本の国情に精通した見識で、江戸に滞留する外国人間で知名士でしたが、プロシア使節と日本人側との通訳として通っていた赤羽根接遇所からの帰り道、中の橋のたもとで刺客の一団に襲われました。1861年1月15日のことで、享年28歳でした。また、昔都下第一の名花とうたわれたという老桜は今はありませんが、春になると境内の桜、木蓮が見事な花を見せてくれます。
光摂殿
光摂殿(こうしょうでん)は、平成12年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として建てられました。一階に講堂、三階に大広間を備えています。その大広間の格天井には、日本画壇の画伯方が精魂込めて描いた草花図が奉納され、嵌め込まれています。
御田八幡神社
和銅2年(709)牟佐志国牧岡に創祀されたと伝わる、1300年を超える神社。周囲はビルで囲まれるが、社殿は樹木に覆われ厳かな雰囲気が漂う。1月と5月の15日に、釜鳴神事という特殊神事が行われている。
御組坂
幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の先頭部隊で、常時は放火海賊を取締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となりました。
御成門
増上寺の裏門としてつくられましたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので「御成門」と呼ばれるようになりました。初めこの門は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年の東京市区改正計画で、内幸町増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築されました。 増上寺三門や庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難を逃れて今日に及んでいます。
虎ノ門金刀比羅宮
大物主神(おおものぬしのかみ)崇徳天皇(すとくてんのう)を祀り、万民泰平の幸運のご利益があるとして人々に愛されています。万治3年に、讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝7年、京極高豊の代に江戸城の裏鬼門にあたる現在の虎ノ門に遷座しました。当時は金毘羅大権現と称されていましたが、明治2年に事比羅神社に、明治22年に金刀比羅宮に社号を改称し、現在にいたります。海上守護、大漁満足はもちろんのこと、五穀豊穣、殖産興業、招福除災の神として広く信仰され、東国名社のひとつとして知られています。また、本殿に向かって右側に「結(むすび)神社」があり、縁結びの神様としても知られています。江戸時代から良縁を求める多くの女性たちの厚い信仰を集め、今でも良縁祈願に訪れる人が後を断ちません。
古川船宿/港町架道橋
古川の川沿いには船宿が多く、約20隻の屋形船が停泊しています。江戸時代から続く老舗の船宿「縄定」は、屋形船や釣り船を利用でき、現在の船着場は高速道路の真下にあります。
元和キリシタン遺跡
大きな岩石の横に、元和キリシタン遺跡の碑と説明板があります。江戸三代将軍・徳川家光が元和9年に50人のキリシタンを処刑した跡で、15年後にも同じ場所でキリシタンが処刑されたと言います。ここを舞台に主人公の「男」と修道士の「ネズミ」をめぐる物語をつづったのが、遠藤周作の短編「札の辻」です。
迎賓館赤坂離宮
明治42年、東宮御所として建てられた「赤坂離宮」。昭和49年に改修し、国の「迎賓館」として設置されました。白と青が基調の華麗な外観は、ベルサイユ宮殿を参考にしています。多くのVIPを迎えサミットの会場にもなりました。現在、通年で一般公開されています。
経蔵
徳川幕府の助成により建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、東京都の有形文化財です。中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康公が増上寺に寄進したもので、国の重要文化財に指定されており、現在は後方の収蔵庫にあります。
桂坂
昔蔦蔓(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていました。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいわれています。
慶應義塾大学/小山内薫胸像
小山内薫は、「築地小劇場」を開場、昭和24年6月の「海戦」「休みの日」の第1回公演以降、俳優を育て、多くの西欧戯曲を紹介しました。教授をしていたこともある慶應義塾大学の一画に建つ胸像は、没後30年にあたる昭和33年12月、友人や門弟たちによって、建てられたものです。 大学内にあるイチョウの黄葉は見ごたえがあります。
桑原坂
今里村の地名のひとつです。その起源について特別の説は残っていません。
熊野神社
元和10年、第13世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したものです。『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、この神社は「ユヤ」権現として親しまれています。
区役所前 女神像
区役所前では、天に向かって手を差し伸べた北村西望氏の手による「平和の女神像」がやさしく迎えてくれます。
九郎九坂
江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になりました。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいいいます。
金地院
東京タワーに到着すると、東京タワービル(フットタウン)があり、通りを挟んだ正面に金地院があります。徳川家康に仕えた僧侶・金地院崇伝が建立した禅寺で、東京タワーの敷地も江戸時代は金地院の境内でした。崇伝は諸法度の制定にも参画した「黒衣の宰相」と称され、晩年は「寺大名」と呼ばれるほど権力があったと伝えられています。