観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
旧台徳院霊廟・惣門
寛永9(1632)年造営の2代将軍徳川秀忠の廟所です。昭和20(1945)年の東京大空襲で、幾つかの門だけが罹災を免れ保存されました。
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
明治5年に開業した新橋停車場の駅舎を、当時と同じ場所に開業当時の外観で再現しています。平成3年から行われた発掘調査により、駅舎やプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘され、平成8年、一部の遺構が史跡として国の指定を受けました。この史跡を保護し、鉄道発祥の往時を偲ぶために再建したものです。内部には鉄道歴史展示室もあり、発掘調査によって出土した品も展示されています。
旧芝離宮恩賜庭園
旧芝離宮恩賜庭園は、1678年から1686年に作庭されたと推定される、最も古い大名庭園のひとつです。江戸初期の典型的な回遊式泉水庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は非常に優れており、国の名勝指定を受けています。ここはもともと海面だったのが埋め立てられ、老中・大久保忠朝の邸地となりました。忠朝は上屋敷を建てる際に庭園を造らせ、「楽寿園」と命名しました。その後、幾人かの所有者を経たのち、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となりました。1871年には有栖川宮家の所有となり、1875年に宮内省が買い上げ、その翌年に芝離宮となりました。関東大震災の際に被害を受けましたが、その翌年には皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市の所有となり復旧され、1924年から一般公開されています。
旧細川邸のシイ
高松中学枚の脇には、目通り幹囲 7.4m、高さ17mの旧細川邸のシイ(都天然記念物)が立っています。このシイはスダジイといい、常緑の巨木で、夏には花が咲き、翌年の秋に成熟して実となります。妖気漂う樹形は歴史の紆余曲折を感じさせます。校内にはこのスダジイほかにも、シイ、ケヤキなどの大木が残されています。
旧国立公衆衛生院
2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関です。建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府へ寄贈されたものである。現在は、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、埼玉県和光市に移転しています。
旧協働会館
老朽化のため閉鎖されネットがかけられていますが、昭和11年に芝浦花柳界の見番として建てられた「協働会館」です。近代木造建築の技術と意匠を巧みに折り合わせ贅を尽くしたとされる、近代和風の建築物で、目黒雅叙園でも活躍した棟梁・酒井久五郎の作です。芝浦ではかつての花街の面影を残す唯一の遺構となっています。
旧岩崎邸庭園(国際文化会館)
三菱の四代目・岩崎小弥太が、京都の名造園家「梅治(うえじ)」こと7代目小川治兵衛に依頼し造らせた庭園です。江戸初期の名残を残す近代庭園の傑作といわれており、平成17年に港区の名勝にも指定されています。
久國神社
久國神社では、福徳円満の神「布袋尊」が祀られています。太田道灌が鎌倉時代の名工・久國作の宝剣を寄進したことから「久国稲荷大明神」として尊敬されています。また、正面拝殿の額は勝海舟の筆によるものとされています。 布袋尊は七福神の中で唯一実在した人物でお坊さんです。小柄で太鼓腹、破れた衣を着て、いつも大きな袋を持っていました。袋の中には日常生活に必要なものがすべて入っていたそうです。占いや天候を予知することが上手で、雪の中に寝ても身体が濡れなかったと言う話が伝えられています。また、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と言われ、現在でも中国では布袋さまを弥勒さんと呼んでいます。
菊池寛実記念 智美術館
平成15年開館の「菊池寛実記念 智美術館」(きくちかんじつきねん ともびじゅつかん)は、現代陶芸のコレクター菊池智が、実業家であった父・菊池寛実のゆかりの地に創設した美術館です。凛とした雰囲気が伝わってくる館内。玄関ドアの鋳金、大理石の床、エントランスの書・篠田桃紅の「ある女主人の肖像」、そして地下の展示室に向かう螺旋(らせん)階段の透明ガラスの輝く手すりなどの美的空間が用意され、この独自の展示空間で、現代陶芸を中心とした展覧会が催されています。ティファニー特注のステンドグラスなど選び抜かれた調度品が館内を彩ります。
亀塚公園
「亀塚公園」という名のとおり、園内には「亀塚」が保存されています。その名にちなんだ亀のスプリング遊具や園名板なども設置されています。平成19年に斜面地に階段を整備し、園内を通って三田3丁目と4丁目を行き来することが可能になりました。また、園内には都心では珍しくなったカントウタンポポを保全しており、毎年4月から5月の開花時期に合わせ、開放しています。
亀塚稲荷神社
霊亀を祀った祠があり、太田道灌がこの地に物見台を置くに当たってこの祠を守護神として創建したと言われます。
亀塚
古墳時代の土器の破片が多数出土し、円墳ではないかと考えられています。平安時代の更級日記(さらしなにっき)に見える竹芝寺の伝説地とも。
紀伊国坂
坂の西側に江戸時代を通じて紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったところから呼ばれました。小泉八雲の「怪談」に出てくる坂としても知られ、都内でも風趣に富んだ坂の一つです。赤坂離宮前から弁慶堀に沿って元赤坂1丁目方向へゆるやかに下り、弁慶堀の真ん中あたりから南側が港区。江戸城外堀のことを別名弁慶堀と呼ぶのは、寛永年間に堀割工事を請け負った弁慶小右衛門の名をとったものと伝えられます。この弁慶堀にかけられている弁慶橋は明治22年に造られ、擬宝珠は旧諸橋から集められたものです。
寄席坂
坂の途中の北側に、明治から大正にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになりました。
雁木坂
階段になった坂を一般的に雁木坂といいますが、敷石が直角に組まれていたから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書きます。
巌谷小波の住宅跡
明治3年生まれの童話作家。独逸学協会学校を卒業後、尾崎紅葉らの「硯友社」に加わっています。明治24年「黄金丸」を発表し、創作童話作家としてお伽噺などを作りました。また、世界各国の童話の紹介にも力を尽くし、大正15年にはデンマーク国二等勲章を受けました。この住居跡は明治40年に購入し、改築を加えて昭和8年に亡くなるまで住んでいました。その後、人手に渡り、漫画家清水昆氏宅となっていましたが、現在は会社に変わっています。また、記念碑(写真)が増上寺本堂裏にあります。
海岸通り
東京湾のすぐ近くの通りです。東京湾周辺では、潮干狩りや伝統漁法にのっとった簀立を楽しむことができます。
霞坂
明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治20年代に開かれて霞坂と呼ばれました。
岡本太郎記念館
万博の「太陽の塔」で知られる岡本太郎が亡くなった後、50年近く生活をしていたアトリエ兼住居が記念館となりました。庭には表情豊かなオブジェが、またアトリエには未完成のキャンバスが飾られている様子は、まだ彼が生きているかのようです。エネルギーに満ちあふれた空間で、芸術の真髄を堪能することができます。
於多福坂
坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられました。
円通寺坂
元禄8年付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとりました。それ以前に同名の別院があったともいいます。
榎坂
江戸時代はじめ、浅野左京大夫幸長(ヨシナガ)がこのあたりで人口湖の造成(いわゆる赤坂溜池)に成功しました。家臣の矢島長雲は、この功績を後世に残そうと、その堤に「印の榎」を植え、これが、坂名と町名の起源となったと伝えられます。
榎坂
江戸時代より前の古街道を示す榎があったと推定される。坂下から東京タワー方向へ登る永井坂を榎坂と記す資料もあります。
詠唱発祥の地
終戦直後の焦土と化した昭和21年、増上寺山内の浄土宗宗務所において、宗門教化のための詠唱は、檀信徒を勇気づけ、彼らのこころの安穏を取り戻しました。そして、増上寺を詠唱発祥の地としました。 浄土宗吉水流詠唱は、お念仏をお唱えし易くする為の「お念仏の助業」です。お念仏をお唱えするという事は、阿弥陀仏に帰依し、全てをお任せするという事であり、お念仏は阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するための五種の行の一つ「称名正行」です。五種正行とは、阿弥陀仏を中心とした読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養をいい、この五種の中で「称名正行」は阿弥陀仏の本願にかなった行いとして「正定の業」であり、他の四種は「称名正行」へ導く為の行としてあることから、「助業」とされております。
永坂
麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいいます。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていません。