観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
汐彩橋
東京湾につながる運河に架かる橋であること、正面にレインボーブリッジを見ることができることから「汐彩橋」と名づけられました。平成16(2004)年4月14日共用開始、橋長45.7mです。
汐見坂
江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂です。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいいました。
自由の女神像
台座からの高さ約11m、重量約9tのブロンズ像は、フランスから作成が認められ、パリの自由の女神像から型を取って現地のクーベルタン鋳造所で製造されたレプリカです。臨海副都心まちづくり協議会が製作、東京都へ寄付されました。
寺町
東京メトロ・白金高輪駅そばの魚籃坂から北側一帯は、ほとんどお寺しかないような正に「寺町」です。
歯科医学教育発祥の地跡
泉岳寺駅から 伊皿子坂・魚籃坂方面に向かう道路(都道 415号)の 「伊皿子」交差点に面して, 黒御影石の碑が建っています。高山紀齋は明治8年に わが国最初の歯科医師免許をとった人物で、その後アメリカに渡り、米国の歯科医師の免許を取得しました。当時日本ではまだ 西洋歯科技術は全く理解されていない時代でした。明治23年にこの伊皿子の地に 歯科医学院を開設し、これが 東京歯科大学の前身です。
志賀直哉居住の跡
六本木駅から俳優座劇場を通り過ぎ、三河台公園の近くに「志賀直哉居住跡」があります。「小説の神様」とも称された志賀直哉は、14歳からの15年間、多感な青春時代をここで過ごしました。屋敷は1682坪という広大な敷地内にあり、旧地名では麻布三河台町。いまは大手企業の社宅やマンションが建てられています。現在も公園やマンションに「三河台」の名が冠されています。その辺りを道路沿いにぐるりと歩くと、反対側には東京ミッドタウンがあり、道路を隔ててきれいに整備された檜町公園が広がります。直哉は、この屋敷で処女作である「或る朝」をはじめ、「網走まで」「正義派」「大津順吉」など初期の作品を書きました。
市三坂
明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と、松平三河守忠直邸のあった三河台町(みかわだいまち)との間で両頭文字をとりました。
四季の丘
桜並木に囲まれた、元麻布ヒルズの広大な敷地に広がる「四季の丘」は、季節の花々に出会える憩いの場です。都心でありながら、身近に自然を感じることのできる場所です。
鼠坂
細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれます。上は植木坂につながります。
善福寺のイチョウ
目通り幹囲約9m、高さ19mの善福寺のイチョウは俗に逆さイチョウと呼ばれています。樹齢約700年と推定され都内で最古のものとして国天然記念物の指定を受けています。伝説によると、善福寺に立ち寄った親鸞が、寺を去るとき、持っていたイチョウの杖を境内の土に立てて、この枚を根づかせてみせるぞ、という意味で「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如きか」といったといわれ、はたして杖は見事に根づいて、今日みるような巨木に育ったといいます。なお、この木は、終戦後にいったん枯死したかに見え、天然記念物の指定を取り消されましたが、住職らの尽力で異例の再指定となり奇跡的によみがえった事実があります。
船路橋
平成19年に開通した船路橋は、もともとは路面電車の車輛工場への入出庫に使う橋でした。今でも路面にレールが浮き出ているのが分かります。唯一残る、廃止された都電のレールの痕跡です。
船光稲荷神社
面している通りは、長者丸通りと呼ばれている通り。この辺りは昔、入り海だったそうで、長者丸という船が遭難しかかった時に、この稲荷神社から光が差し、船は助かったのだそうです。そこからこの神社の名前がついたそう。この辺りが海だったなんて、なんだか信じられませんね。光が差す神社・・・隠れたパワースポットでお参りをし、心を落ち着かせてみるのもいいですね。
浅野内匠頭終焉の地
江戸時代、この辺りは奥州一之関藩(岩手県)田村右京太夫の上屋敷がありました。内匠頭は江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、この屋敷で切腹させられました。上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託して。日比谷通りに面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。
浅野土佐守邸跡(赤坂氷川神社)
元禄のころは浅野土佐守の屋敷がありました。内匠頭が切腹した時、夫人の瑶泉院(ようぜいいん)はここ実家の浅野式部小輔長照(あさのしきぶしょうゆうながてる)のところに引き取られました。講談などで語られる「南部坂雪の別れ」に出てくる南部坂はここから東北方にあります。
泉岳寺梅
忠臣蔵でおなじみの播磨赤穂藩藩主・浅野家の菩提寺である泉岳寺には、赤穂浪士にまつわる幾つかの梅の木が残されています。美しい梅の花を愛でつつ忠臣蔵の世界に浸れます。
泉屋博古館分館
2002年秋に、六本木一丁目の泉ガーデンの一角にオープンした新しい美術館。京都市左京区に本館があり、江戸時代から続く住友家のコレクションを保管、展示しています。館名は江戸時代の住友の屋号『泉屋』と千年前に中国で皇帝の命により編さんされた青銅器図録『博古図録}に由来するそうです。
千躰子育地蔵尊
子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなんで、子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されています。毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が行われます。
仙台坂上交差点
左折すると二の橋交差点、直進すると明治通りの四の橋交差点に出ます。
仙台坂
坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名をよぶことになりました。
絶江坂
承応2年、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきました。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり、坂名に変わりました。
赤坂消防署発祥地
青山ツインビルの裏側に細長い公園があり、その西端に 発祥碑があります。白い石に金属プレートが貼り込まれ、上に赤銅色の立方体の彫刻が乗った ユニークな形をしており、 火消しの纏(まとい)をかたどったものだといいます。
赤坂御用地
現在の住所で東京都港区元赤坂2丁目のほぼ全域を占める赤坂御用地は江戸時代、紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)があったところで、明治維新後、政府に接収されて帝室(現在の皇室)に献上されたものです。赤坂御用地は元々、他の御料地などと同様に皇室財産でありましたが、第二次世界大戦の敗戦と日本国憲法の発布とともに日本国有に移され、国有財産たる皇室用財産として皇室の用に供せられています。明治6年に失火により皇居が焼失した際は、明治天皇がこの地に移り、明治21年に新皇居(明治宮殿)が落慶するまでの間、ここを皇居としていました。赤坂御用地の北東に隣接して迎賓館(旧赤坂離宮)があり、訪日した外国賓客の接遇に用いられました。
赤坂Bizタワー
「赤坂Bizタワー」(地下1階~地上2階)2階の一角には、アートな空間があります。縁日で見かけるようなヨーヨー風船を思わせる球体が並んだ作品は、トーマス・シャノンというアメリカのアーティストによるものです。
赤羽橋
昭和49年3月架設、長さ17.50m、幅30mの鋼橋。古川にかかる橋で、町名は橋名によってつけられたといいます。
石村近江墓
石村近江は号を浄本、通称を源左衛門といい、京都から江戸に移住して三味線を完成させました。「浄本近江」と呼ばれた名工でした。境内には三味線伝来の歴史と石村家の業績を簡単にまとめた碑文があります。そのため同寺は別名「三味せん寺」とも呼ばれています。