観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
芝丸山古墳
5世紀後半の築造と推定される都内最大級の前方後円墳。古墳の麓には縄文後期の裏鬼門に位置し、山中鎮守の重要な地を占める円山稲荷や伊能忠敬側地遺功表があり、自由に登れます。
芝浦南ふ頭公園運動広場(かいがんぱ~く)
運動広場を3分割してフットサル場として、2面合わせて少年野球場として、3面を利用してサッカー場としても利用できます。また、全てのサイズで、多目的運動場としてご利用できます。利用の際は団体登録が必要となります。登録後に、利用申請を利用日の3ヶ月前から港区少年団体、2ヶ月前から港区在住在勤団体、1ヶ月前から区外団体(都内在住)の順で受け付けます。主に港区の少年野球団体と少年サッカー団体を対象とした施設ですが、空いていれば、港区在住在勤団体、さらに区外団体もフットサルやサッカー、その他の種目(ゲートボール、ラクロス、タグラグビー等)を楽しめる多目的施設です。
芝浦南ふ頭公園
レインボーブリッジの下にあってブリッジと東京湾を一望できる海上公園。夜景もきれいです。
芝浦中央公園
東京都下水道局芝浦水再生センター内の曝気槽(ばっきそう)の上部を鉄筋コンクリートで蓋をして造られた人工地盤の公園です。公園の計画は芝浦処理場を改築する際に持ちあがったものです。樹木は潅木類が中心ですが、四季おりおりの花が楽しめ、園内にはテニスコートや大芝生広場・児童コーナーなどがあります。 ソメイヨシノ27本、シダレザクラ2本、区の花である『バラ』や『ハナミズキ』『アジサイ』が植えられています。その他にもツツジ、サザンカ、ツバキなどが四季折々の美しさを見せてくれます。
芝浦球場地跡
芝浦球場は、選手が野球をすることで報酬を得る「職業野球」を日本で初めて試みたチーム「日本運動協会」の本拠地として、埠頭公園付近に、大正10年に建設されました。いわゆる日本初のプロ野球チーム発祥の地です。野球好きのお子様であれば、こういったエピソードを教えてあげるといいですね。
芝浦運河沿緑地
界隈は、江戸時代に月見や海水浴の名所としてにぎわった地域。緑地と遊歩道が続く憩いの空間としてよみがえり、水辺まで階段で気軽に降りることができます。楽器を演奏する3人の人物のモニュメント「リバーサイドトリオ」もあり、夕暮れ時に点灯するガス燈がロマンチックな雰囲気を盛り上げます。
芝浦運河沿い
遊歩道が整備され、さわやかな風と一緒に散歩を楽しめます。
七面坂
坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称です。
汐留シオサイト
31ヘクタールにおよぶ「旧国鉄汐留貨物駅跡地」を利用し再開発された「汐留シオサイト」。1区~5区からなり、「汐留」駅・「新橋」駅と「大門」駅・「浜松町」駅をつないでいます。各施設は、地下通路とデッキでつながっているので、移動も大変便利。
汐彩橋
東京湾につながる運河に架かる橋であること、正面にレインボーブリッジを見ることができることから「汐彩橋」と名づけられました。平成16(2004)年4月14日共用開始、橋長45.7mです。
汐見坂
江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂です。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいいました。
自由の女神像
台座からの高さ約11m、重量約9tのブロンズ像は、フランスから作成が認められ、パリの自由の女神像から型を取って現地のクーベルタン鋳造所で製造されたレプリカです。臨海副都心まちづくり協議会が製作、東京都へ寄付されました。
寺町
東京メトロ・白金高輪駅そばの魚籃坂から北側一帯は、ほとんどお寺しかないような正に「寺町」です。
歯科医学教育発祥の地跡
泉岳寺駅から 伊皿子坂・魚籃坂方面に向かう道路(都道 415号)の 「伊皿子」交差点に面して, 黒御影石の碑が建っています。高山紀齋は明治8年に わが国最初の歯科医師免許をとった人物で、その後アメリカに渡り、米国の歯科医師の免許を取得しました。当時日本ではまだ 西洋歯科技術は全く理解されていない時代でした。明治23年にこの伊皿子の地に 歯科医学院を開設し、これが 東京歯科大学の前身です。
志賀直哉居住の跡
六本木駅から俳優座劇場を通り過ぎ、三河台公園の近くに「志賀直哉居住跡」があります。「小説の神様」とも称された志賀直哉は、14歳からの15年間、多感な青春時代をここで過ごしました。屋敷は1682坪という広大な敷地内にあり、旧地名では麻布三河台町。いまは大手企業の社宅やマンションが建てられています。現在も公園やマンションに「三河台」の名が冠されています。その辺りを道路沿いにぐるりと歩くと、反対側には東京ミッドタウンがあり、道路を隔ててきれいに整備された檜町公園が広がります。直哉は、この屋敷で処女作である「或る朝」をはじめ、「網走まで」「正義派」「大津順吉」など初期の作品を書きました。
市三坂
明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と、松平三河守忠直邸のあった三河台町(みかわだいまち)との間で両頭文字をとりました。
四季の丘
桜並木に囲まれた、元麻布ヒルズの広大な敷地に広がる「四季の丘」は、季節の花々に出会える憩いの場です。都心でありながら、身近に自然を感じることのできる場所です。
鼠坂
細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれます。上は植木坂につながります。
善福寺のイチョウ
目通り幹囲約9m、高さ19mの善福寺のイチョウは俗に逆さイチョウと呼ばれています。樹齢約700年と推定され都内で最古のものとして国天然記念物の指定を受けています。伝説によると、善福寺に立ち寄った親鸞が、寺を去るとき、持っていたイチョウの杖を境内の土に立てて、この枚を根づかせてみせるぞ、という意味で「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如きか」といったといわれ、はたして杖は見事に根づいて、今日みるような巨木に育ったといいます。なお、この木は、終戦後にいったん枯死したかに見え、天然記念物の指定を取り消されましたが、住職らの尽力で異例の再指定となり奇跡的によみがえった事実があります。
船路橋
平成19年に開通した船路橋は、もともとは路面電車の車輛工場への入出庫に使う橋でした。今でも路面にレールが浮き出ているのが分かります。唯一残る、廃止された都電のレールの痕跡です。
船光稲荷神社
面している通りは、長者丸通りと呼ばれている通り。この辺りは昔、入り海だったそうで、長者丸という船が遭難しかかった時に、この稲荷神社から光が差し、船は助かったのだそうです。そこからこの神社の名前がついたそう。この辺りが海だったなんて、なんだか信じられませんね。光が差す神社・・・隠れたパワースポットでお参りをし、心を落ち着かせてみるのもいいですね。
浅野内匠頭終焉の地
江戸時代、この辺りは奥州一之関藩(岩手県)田村右京太夫の上屋敷がありました。内匠頭は江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、この屋敷で切腹させられました。上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託して。日比谷通りに面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。
浅野土佐守邸跡(赤坂氷川神社)
元禄のころは浅野土佐守の屋敷がありました。内匠頭が切腹した時、夫人の瑶泉院(ようぜいいん)はここ実家の浅野式部小輔長照(あさのしきぶしょうゆうながてる)のところに引き取られました。講談などで語られる「南部坂雪の別れ」に出てくる南部坂はここから東北方にあります。
泉岳寺梅
忠臣蔵でおなじみの播磨赤穂藩藩主・浅野家の菩提寺である泉岳寺には、赤穂浪士にまつわる幾つかの梅の木が残されています。美しい梅の花を愛でつつ忠臣蔵の世界に浸れます。
泉屋博古館分館
2002年秋に、六本木一丁目の泉ガーデンの一角にオープンした新しい美術館。京都市左京区に本館があり、江戸時代から続く住友家のコレクションを保管、展示しています。館名は江戸時代の住友の屋号『泉屋』と千年前に中国で皇帝の命により編さんされた青銅器図録『博古図録}に由来するそうです。