観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
北里研究所病院
日本最初の伝染病研究所は明治25年10月芝公園の福沢諭吉邸の一角に誕生。「世界の北里」の才能が日本において埋もれるのを憂えた福沢諭吉が北里柴三郎に提供したものでした。その後国立となり白金台に移転しましたが、大隈内閣が研究所を内務省から文部省へ移管したのに反対し、所長の北里とともに仝所員が辞職しました。大正3年11月北里が私財を役じて創立した北里研究所がこの地に完成。コッホ誕生にちなんで12月11日開所しました。
北条坂
坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったために、この名がつきました。
放送記念碑
ここは大正十四年三月二十二日わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地です。 東京放送局が、当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオ第一声を送り出しました。 この放送発祥の地に、放送開始三十周年を記念して「放送記念碑」を建立したものです。
偏奇館跡
作家永井荷風が大正9年から昭和20年の空襲で焼けるまで25年間住んだ所。偏屈な変わり者を自認し、ペンキ塗り木造2階建ての洋館をもじって偏奇館と命名しました。江戸情緒を懐かしみ、「すみだ川」「日和下駄」などの作品を残しました。明治43年、31歳の時、森鴎外(もりおうがい)の推薦で慶應義塾大学の教授となり、「三田文学」を創刊、主宰しました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまいました。
仏足石
仏足石は、仏の足の裏の形を石に彫り付けたものです。インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的に表し、人々はこれらを仏として礼拝していました。 この仏足石は、第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれています。
福沢・近藤両翁学塾跡
福沢諭吉の塾が、慶応4(1868)年に築地鉄砲洲から三田の現在地へ移転するまでの4年間、この芝新銭座にありました。
福吉坂
港区赤坂2丁目15番と17番の間を、北から南へ向けて上る坂道で、飲食店の入ったビルの間にある石段になっています。坂道の標識は設置されていませんが、赤坂福吉町会と福吉坂改修工事実行委員会が設置した「福吉坂石段の改修工事について」という金属製のプレートが坂上部に設置されており、この石段が「福吉坂」であることを示しています。このあたりが旧町名で赤坂福吉町と呼ばれていたことに由来し、この名がついたと言われています。
普光観智国師墓
観智国師は天文13年に武蔵国にて出生し、天正12年に増上寺の住職となりました。慶長15年に徳川家康の斡旋により国師号を授けられ、これ以後、観智国師とよばれたといいます。
埠頭公園(南極探検隊記念碑)
明治43年(1910)日本最初の南極探検隊が芝浦から出発した記念の碑が建っています。南氷洋を行く開南丸をイメージした船の遊具は全長25m、高さ12mの大きなもの。噴水池は南極大陸に見立てて造られていて、船上から見ると眼前の南極大陸からペンギンたちが出迎えてくれているようです。またプロ野球発祥(大正9年)にちなんで少年野球場が造られています。人工芝の野場には観覧席があり、ナイター照明もついています。
品川シーズンテラス
品川シーズンテラスは、NTT都市開発、大成建設、ヒューリック及び東京都市開発の民間事業者4社と東京都による、立体都市計画を活用した官民連携大規模開発事業です。低層階には、バラエティに富んだショップ&レストラン、カンファレンス、ホールを配し、建物に隣接した3.5haの広大な緑地には、四季折々の樹木や水辺の景観が調和した豊かなランドスケープを創出していることで、ビジネス拠点に潤いを与えると共に、コミュニティを育む場として地域社会に貢献していきます。
氷川神社(白金)
白鳳時代のころ、白金村の総鎮守として建立されたと伝えられています。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おほなむちのみこと)です。社殿は、江戸時代中期の明和の大火(1772年)によって焼失し、江戸後期に再建。しかしその社殿も、昭和20年の空襲に遭い、昭和33年に現在の社殿を竣工しました。 鳥居をくぐり、30数段の石段を上がると本殿の左側には、開運・招福の神様「建武神社」が、右側には衣食住・守護の神様として「稲荷神社」があります。稲荷神社辺りには、子猫や子犬ほどの大きさのかわいらしいキツネの石像があります。
氷川坂
8代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当たる坂です。
氷川公園
この公園は、地下に駐車場がある人工地盤の公園です。平成11年に再整備しました。園内には、幼児たちの遊び場、バラ園、噴水など誰もが安心して気軽に利用できる快適な公園に生まれ変わりました。バラ園は毎年美しい花を咲かせます。(見頃は5月中旬と10月中旬)
尾崎紅葉生誕の地
「金色夜叉」などの小説で有名な紅葉は、慶應3年12月16日芝中門前2丁目25番地(現在の芝大門2-7-4)で生まれました。14歳のころから三縁山増上寺にちなんで「縁山」と号して投稿するなど早くから文学活動に進みました。17歳で仲間を集めて、日本最初の文学団体「硯友社」を結成、機関紙「我楽多(がらくた)文庫」が発行されました。19歳の夏、増上寺境内の紅葉山からとった紅葉を号にし、明治36年、36歳で他界しました。青山霊園に墓があります。
飯倉公園
飯倉保育園に隣接している多目的広場と遊具広場からなる公園です。毎日、子供たちの楽しそうな声があふれ、サラリーマンや付近の人々が憩う場所として親しまれています。平成19年に遊具広場をリニューアルしました。広場の周りを竹柵で囲って犬の散歩を禁止し、子供たちの安全と衛生面に配慮しています。広場一面に芝生を敷き、その上にカラフルな大型遊具やふわふわドームなどを設置し、小さい子供たちでも安心して走り回って遊べます。また、かまどベンチや災害用マンホールトイレを設置し、災害などの緊急時の避難場所としての機能も備えました。
畠山記念館
荏原製作所創立者畠山一清の茶器中心のコレクションを展示しています。かつては島津家の屋敷で、抹茶を供する設備もあり、武家屋敷の雰囲気を伝えています。国宝や重文を含む陶磁器、書籍、絵画など約1500点を所蔵。 春には庭園の桜が楽しめます。 ※2019年3月18日から施設改装工事のため、長期休館しております。
白金台どんぐり児童遊園
目黒通りに面し、国立自然教育園や東京都庭園美術館にほど近い児童遊園です。開放的な広場や築山があり、どんぐりのなる樹木もたくさん見られます。夏には水遊びが楽しめる「じゃぶじゃぶ池」があり子どもたちに大人気です。
白金児童遊園
通称「猿町公園」とよばれています。春には桜が児童遊園の上空を一面に覆い、空が狭くなるほどです。滑り台が、大・中・小と設置されているほか、ブランコの座面にも小さい子どもが乗れるバケットつきのものがあるため、どの年齢の子どもも遊具で楽しむことができます。また、港区では唯一の「土管」遊具が楽しめます。
白金公園
古川沿いにある公園で、古川の水辺に近づけるように園内には親水テラスを設けており、その近くにはブロンズ像「釣をしている風景」が見られます。また、ソーラーパネルによる太陽光発電を利用した園灯や、蓄電設備を設置しており、災害時に利用できる電力を確保しています。園内には、福井県の越前水仙の花も楽しんでいただけます。
乃木坂トンネル
乃木坂トンネルは、屋根に太陽光発電パネルがあり、自力発電でトンネル内の照明をまかなっているエコなトンネルです。また、青山方面から見ると地上に入口がありますが赤坂方面を進むにつれ、徐々に地下に潜っていく変わった形状も特徴的です。さらにトンネル外の両脇に歩道があり、まさにここがロケ地なのです。 『特命係長 只野仁』や『相棒』、 『仮面ライダーカブト』や『仮面ライダーアギト』など追いかけられるシーンなどに多く使われているようです。
乃木坂
大正元年乃木将軍の葬儀と同時に幽霊坂という名は廃止され、乃木坂に改められました。また、行合坂、なだれ坂とも呼ばれました。
日本経緯度原点
日本国内の測量の基準点である「日本経緯度原点」です。国土地理院の標識と原点の金属鋲がうめこまれた御影石の碑。全国の経緯度はここの値を基準に決定されています。「東経139°44′28″.8869 北緯 35°39′29″.1572」。 明治7年、ここに海軍観象台ができ、明治21年、東京天文台となった同施設で星を観測して精密な緯度、経度が決定されました。その後、三角点が決められ、全国に三角網が形作られていきます。なお、東京天文台は関東大震災で観測機器に大きな被害を受けたことなどから、三鷹へ移転。現在の国立天文台となっています。
日本基督教団安藤記念教会
氷川神社の向かいにあるプロテスタント教会。現存する礼拝堂は、大正6年に竣工し、関東大震災を乗り越えその姿をととめています。大谷石による総石造りの教会建築で、通りに面したアーチ型のステンドグラスは巨匠・小川三知の製作で、内部を見学することもできます。
日東坂
日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝えられています。大正初年に開かれた坂と推定されます。
日向坂
江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷がありました。袖振坂ともいいましたが、由来は不明です。誤ってひなた坂とも呼びました。